『臨床喫茶学クリニック』・・ケガレ・ケ・ハレの生活律喫茶・茶の湯・・11

  Λ(ラムダ)喫茶・茶の湯・・9・・神仙・仙薬による無縁社会のケガレ・ケ・ハレの生活律

 ワタシ流日本社会の喫茶・茶の湯誌・・6・・栄西は最初の抹茶法、茶の実の伝来者ではない・・2


 栄西による日本最初の茶書と言われる「喫茶養生記」には、茶木の育て方は書かれていませんが、当時、既に、茶園は各地にあり、ワザワザ、書く必要がなかった位なのです。

 菅原道真(845〜903年)は大宰府に排斥されていた当時、栄西が茶の実を植えて開いたとされる背振山の茶園由来の茶を既に飲んでいたのです。

 空也(903〜972年)は疫病の治療や予防に用いていたと伝わり、藤原道長は、糖尿病を病んでいたとされますが、1016年には茶を喫していたと日記・御堂関白記に記しているのです。

 つまり、嵯峨天皇、永忠で有名な平安時代の喫茶は廃れたと言われますが、平安中期・後期にあっても喫茶は続いており、寺院の儀礼でも茶が使われていたのです。

 公家や武士層にはあまり広まってはおらずに、むしろ、寺院、庶衆層・弱者の施薬救済として普及していたのだと私は思います。

 我が国は、今も続く有名人の加上が優先される記録が作られやすく残されやすく、社会の実態が記録として残ることは少ないのが現実です。


 聖武天皇行基の時代からの伝説とされる季御読経に茶を振舞った引茶(「公事根源」一条兼良)が、1191年の九条兼実の日記・「玉葉」にも記されており、引茶行事が続いていたことを明確にしています。

 当時、既に、所領からの公事(特産物献上)としても茶が用いられていたとの記録も残されているほどです。

 つまり、栄西以前に茶園が各地にあり、茶の栽培法を説する必要はなかったと判ります。


 栄西臨済宗を我が国に伝え、禅院茶礼から茶が広まったとされる茶道史も「加上の理論」で、禅院の茶礼は栄西の没後に日本へ来た蘭渓道隆が中国式禅院修業を行う建長寺を1251年に創建して始まるのです。

 栄西は「喫茶養生記」では、「昔より以来、自国他国ともにこれを尚ぶ」と既に我が国で茶が飲まれていたことを前提として、「養生延命の仙薬」であることを強調しており、「末世養生の良薬なり」として抹茶法に拘ってはいないようで、点て方よりも茶の薬効に主眼を置いていました。

 栄西は桑茶にも注目し、散茶・抹茶の作り方、飲み方を紹介して、唐代の陸羽による「茶経」や前述の成尋が宋で飲んだ各種の茶の効用に注目しており、禅林での茶礼については「典座教訓」・「赴粥飯法」を重んじた曹洞宗を伝えた道元の方だと私は思います。

 栄西は茶湯、桑湯などについて病気にならないための効能を重んじていますが、「点じ方」については煎茶法では用いられなかった茶筅についても、当時、宋では用いられていたにもかかわらず、言及していません。

 陸羽時代の匙で攪拌していた可能性が高いのです。


 我が国の茶樹について、DNA鑑定による調査が行われています。

 日本の茶樹にはニ系列があり、茶の実が伝来したとすれば二回あったことになります。

 一回目の茶樹は朝鮮半島とも同型のものであり、二回目は中国の杭州近郊から伝わった茶樹と同型なのです。

 一回目の伝来は奈良時代、二回目は室町時代と考えられています。

 一回目の伝来種が朝鮮半島と同型だと言うことは、渡来家系の行基が茶を飲み、非田院や施療所などで施薬救済として民衆に飲ませていたとの私の思いです。

 また、二回目の伝来種は室町時代ということは、菅原道真空也藤原道長のみならず、栄西が宋から帰国後ニ十年を経過していた三大将軍・源実朝に奉じた茶も一回目の伝来種由来の茶を喫茶していたことになります。

 茶が公家・貴族たちの養生の良薬、寺院の儀礼や民衆の施薬救済として用いられてはいたが、源実朝の話は武士層にはあまり広まってはいなかった可能性ありです。

 栄西が茶の効用として養生の仙薬・良薬を強調していることは、寺院での引茶・供物、僧の眠気覚まし、修行への気を高める仙薬、行基空也と伝わり、栄西叡尊へとつながる施薬救済として民衆の間で根強く引き継がれ愛用されていたのだと思います。

 そして、江戸後期になって、有名人と話を結びつける格好ずけがなされた“歴史”がもっともらしく今日に“権威”の「加上」が続いている!?


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Portable Power塾で「B級市民のススメ」の連載を開始しました(http://shintenoh.blogspot.com/