『臨床喫茶学クリニック』・・ケガレ・ケ・ハレの生活律喫茶・茶の湯・・10

  Λ(ラムダ)喫茶・茶の湯・・8・・神仙・仙薬による無縁社会のケガレ・ケ・ハレの生活律

 ワタシ流日本社会の喫茶・茶の湯誌・・5・・栄西は最初の抹茶法、茶実の伝来者ではない・・1


 栄西が茶の実を持ち帰ったとしても、当時(1191年)、帰国が7月だったことから、種をまいても発芽はしなかったと考えられます。

 それ故に、栄西の茶実の将来者説は疑いがもたれていました。

 しかし、実際は持ち帰っていなかった可能性が高いのです。

 そして、最初の抹茶法の伝来者としても否定されています。


 栄西の生まれた頃、博多では、既に宋人によって抹茶が飲まれていたとする11世紀末の遺跡の発掘調査からも明らかとなったのです。

 また、1072年に渡宋して帰国することのなかった藤原氏出身の僧・成尋(1011〜1181年)は当時の宋での喫茶の様子を記しているのですが(参天台五台山記;各種の点茶法や銭一文のような室町期の一服一銭の立ち売り茶のようなもの)が、帰国した弟子たちが栄西より前に抹茶法を伝えていた可能性も高いのです。

 神津朝夫著「茶の湯の歴史」(角川選書)を読まれると栄西の茶実や抹茶法の伝来説に対してのみならず、茶の湯の歴史が如何に『加上の理論』(江戸時代の町人学者・冨永仲基・・思想や学説のみならず、世俗の家格や系図なども「加上」された変遷の歴史が今日に残るとする)で語られてきたかが良く判りますから、是非とも、ご一読をおすすめします。

 明恵が宋に渡って茶実を持ち帰ったとか、栄西明恵に茶実を贈り、闘茶で本茶の地位を誇った有名な栂尾茶となったとのお話は良く知られています。

 「漢柿蔕茶入」に入れた茶実が贈られたと伝えられる明恵高山寺の中興に乗り出したのは1206年であり、栂尾茶が闘茶での本茶と呼ばれてもてはやされた南北朝時代に作り上げられた「加上」の伝承話なのです。

 しかし、栄西明恵と出合ったことはなかったのみならず、茶の実を贈ったとの栂尾茶由来、明恵が宋に渡って茶を将来させたとのお話も鎌倉末期以来の伝説なのです。

 その伝説を18世紀中ごろの千家家元制成立に貢献した川上不白が「不白筆記」に“茶の渡りたるは明恵上人唐より取り来る、はじめ栂尾へ植え候也」と知ってか知らずか、シャアシャアと記しています。

 栄西の茶将来説は、神津朝夫著によれば、1686年刊の黒川道祐「雍州府志」や有名な藪内竹心の「源流茶話」にも書かれているのですが、茶人仲間に広まっていた江戸時代後期の「加上」話なのです。

 
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