『臨床喫茶学クリニック』・・ケガレ・ケ・ハレの生活律喫茶・茶の湯・・8

  Λ(ラムダ)喫茶・茶の湯・・6・・神仙・仙薬による無縁社会のケガレ・ケ・ハレの生活律

 ワタシ流グローカル社会の喫茶・茶の湯・・茶会尺・・2・・上井覚兼


 上井覚兼と古市澄胤は私が憧れとするような生き方、喫茶・茶の湯を愉しんだ戦国動乱期を駆け巡った茶人です。

 私は、上井覚兼の茶会尺的な茶寄和合する茶が、取り分け好きで、ワタシ流の今日的なグローバル、グローカル社会にあっての喫茶・茶の湯の在り様だと思っています。

 つまり、日頃のワタシ流喫茶・茶の湯の楽しみと実践の基本としているのです。


 上井覚兼(うわい かくけん/さとかね)は、戦国時代から安土桃山時代の薩摩・島津家の家老ともなった勇猛果敢で人間的な信頼がもてる人間性漂う教養のある武将だったと私は思っています。

 ウイキぺディア(Wikipedia)によれば、天文14年(1545年3月23日)生まれで天正17年(1589年7月24日)に44歳で没しています。

 優れた教養人で「上井覚兼日記」(「上井覚兼日帳」、「伊勢守日記」とも言われます)や「伊勢守心得書」を記しています。

 「上井覚兼日記」は丹念に記録した天正年間の日記《天正2年(1574年)〜天正14年(1586年》で、今日では天正十年十一月から天正九月までの日記が幸いに残っているために、戦国期の島津藩の様子、九州での戦乱や覚兼の公私の日常生活や趣味の生活、生き様を知ることが出来るのです。

 上井覚兼は戦国後期の武将でしたが、応仁・文明の乱期、下克上さながらの奈良近郊を根拠とした豪族だった古市澄胤《享徳2年(1451年)〜永正11年(1508年)》は奈良興福寺の衆徒で半僧半俗一家でした。

 古市澄胤は手練手管の権謀術策を用いて戦乱の時代に挑み、一方で金儲けにあくどく博打的手法を用いた陰謀をめぐらしたのですが、最後は七転び八起の命運も尽きて57歳の人生を終わりました。

 しかし、単なる悪党だけではありませんでした。

 表の顔と裏の顔が極端だった古市澄胤が良く知られているのが、ワビ茶の租と言われる村田珠光から与えられたとされる「古市播磨法師宛一紙」です。

 有名な「和漢の境をまきらかす」、「冷え枯れる」などのワビのこころの原典とされる一紙です。

 古市播磨(澄胤)は当時の多くの大名や土豪のように無学無智蒙昧ではなく、破格の人物だったようです。

 「冷え枯れる」境地は、連歌、和歌の世界だと思いますが、澄胤は連歌を嗜み、能を舞い、謡いました。

 尺八、蹴鞠や幸若舞を楽しみ、念仏踊や風流な催しを愉しんだのです。

 その古市澄胤は茶書を著すほどの教養人でした。

 「淋汗(林間)茶湯」と言われる淋汗(夏風呂)と湯屋を茶亭にした茶湯、酒宴のみならず、風流なしつらえを施し、身分の上下を問わずに加わった大衆的な熱闘がみなぎる大茶会を開催していたのです。


 上井覚兼も奈良とは遠く離れた九州の地で「淋汗茶湯」を催したことで知られています。

 上井覚兼は島津貴久、義久と二代に渡る藩主の信頼が厚い勇猛果敢な武将でした。

 医術を学び、茶湯のみならず、立花、連歌、和歌、漢詩、古典にも通じ、俳諧狂歌をも遊びました。

 碁や将棋なども楽しみ、戦塵を癒すような閑談を楽しんだのです。

 戦闘に明け暮れていましたが、戦塵を癒すような閑談を愉しんだのです。

 戦から帰ると「終日茶会」と日記に記した風呂淋汗を催していたのです。

 風呂と酒宴を伴なった茶湯の興行には多くの武士や臣下が終日、寄り合い和合した集いだったのです。

 幸若舞、能狂言のみならず、民衆の盆舞や祇園囃を好み、町衆たちと乱舞するのを喜びとしました。


 また、「茶会釈」と言われる茶会を催しました。

 「茶会釈」は集団的な茶会で、素朴な民衆的な茶寄合だったのです。

 開放的で、流行も取り込み、俗臭も漂う集団茶会でしたが、大名の特権的な世俗の権威を誇るための茶会ではなくて、形式ばった堅苦しさのない、生きる日々を楽しむ終日茶会を催したのです。

 北野大茶会のような表面的な大衆性を装いながらの“茶の湯の御政道”茶会ではありません。

 今日的な“茶道的芸能”性を伴なう大寄せの茶会とも異なった、おおらかさと開放感を持った集まりでした。

 また、ワビの茶のように茶室での小宇宙的な茶ではない、芸能・文学的素養とドコカそこはかとない教養がにじみ出るような民衆的な茶寄り合いで、賑やかな集団的な「茶会釈」と呼ぶ茶会だったのです。
 
 私は、上井覚兼の「茶会釈」のような茶会・茶寄和合が、今日、求められていると思っています。

 流行的な趣も取り込んだ、今日的なグローバル、グローカルな文化としての民衆的で、形式ばる固苦しさのない、生きる日々を愉しむ、赤裸々な開放感が漂う茶寄です。

 閉塞感、拘束感や既成の価値観を押付けることのない「茶会釈」、私は、そのための喫茶・茶の湯の在り様を求めて創意工夫に務めています。

 今日は、古市澄胤や上井覚兼の生きたような時代であり、グローバルとグローカル社会が混在する実感と未来に生きる日々を過していると思うからです。

 
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