『臨床喫茶学』・・もう一つの茶の道・・10;ケガレ・ケ・ハレの生活律喫茶

 忘れられた衆生安楽への生きた生活喫茶・・10

 空也上人のケガレ・ケ・ハレの喫茶・・1・・ケガレの力 
  
 今回から話題とする市聖・空也上人は、律令制は崩壊し貴族社会の退廃、貴賎を越えて感染する疫病の流行や飢餓に慄く人たちを救済すべく称名念仏を唱え、社会事業や御仏供茶・施茶に努めてケガレをエネルギーとした元祖です。

 京都市中を念仏を称え続けて遊行し、阿弥陀聖、市聖と慕われた空也は、聖徳太子以来の鎮護国家のための仏教を日本的仏教化たる貴賎を越えて庶民に開いた衆生安楽のための浄土教の先駆者でした。

 空也は、ニーチェ的に言えば、悲劇のどん底にあっても肯定する意欲によって、ケガレをパワーとすることが出来たのです。

 96歳のジャーナリスト・むのたけじの近著「希望は絶望のど真ん中に」(岩波新書)に通じます。

 私は、ケガレ・ケ・ハレの生活律喫茶・茶の湯の元祖はケガレをパワーとする空也上人としているのです。

 ケガレをエネルギーとして肯定する美意識は、ワビ・サビをも内包します。


 行基聖武天皇の時代には既に始まった律令制の衰退と社会的な動揺は、菅原道真の時代・九世紀後半になると転変地異と藤原氏を代表とする貴族層の私的な権力欲による争いに律令体制の乱れと崩壊がすすみました。

 菅原道真は讃岐で詠んだ『寒草十首』で既に紹介のように生活弱者に優しい目を向けていますが、朝廷・貴族は上から目線で庶民生活・社会の内に穢れ・賤民への差別強制を我が国社会に植えつける「延喜格式」の検討を始めて(869年)律令制の乱れがハッキリしてきた時代となっていました。

 律令制施行の修正に始まり、905年に勅が出されて正式に制度の検討がなされ、967年に施行された「延喜式」は我が国最初の差別制度の確立となったのです。

 その「穢れ」の差別意識は未だに陰に陽に根を張っている現実があるといえます。


 そうした時代に生きた菅原道真は、学問と詩歌の喜びや喫茶によりハライ・キヨメることが出来ずに、ケガレてしまいました。

 ケガレは、気枯れ、気渇れる、褻枯れを、キヨメは気好めを内包します。

 残念ながら菅原道真は、ケガレ・ケ・ハレの循環の輪から抜け出したとはいえません。

 ケガレ・ケ・ハレの輪廻からの転生から抜け出すためにはエネルギー、パワーが求められます。

 ケガレをエネルギーの枯渇・「気枯れ」・「気渇れ」・「褻枯れ」とすることなく、ケガレ・ケ・ハレのすべてを肯定することが出来れば、「ハライ」の出来ないことはなくなります。

 私は、すべてを肯定する「ハライ」・「キヨメ」の通過儀礼・媒介項として『喫茶・茶の湯』を日常茶飯の喜びとしています。

 「ワビ・サビ」は「ケガレ」の観念、美意識に内包されると考えているのです。


 市聖・空也上人は、菅原道真が亡くなった903年に生を受けて、この世に、道真を引き継いで、生活弱者に優しい目を注ぎました。

 そして、行基のような社会事業、鴨川の河原に氾濫して横たわる貴賎を越えた疫病・飢餓死者たちを弔い、弱者に称名念仏南無阿弥陀仏を称えることによる生きる喜びと救い、つまり、『ケガレのハライ』の肯定と延喜式により制度化された河原者・エタ・悲人の穢れの差別社会に挑戦したケガレ・ケ・ハレの循環の輪を超えるエネルギーを発揮しました。

 天皇家・エタを両端とする貴・賤を固定化しようとする卑賤、不浄とされる仕事を称名念仏のエネルギーで抜け出すパワーとしたと言えます。

 つまり、ケガレの清浄・汚穢れの二項対立を乗り越えた、ケガレの気枯れる危険性・創造性の両義性への転換をはかったのです。

 日本社会や文化に独特な不浄感ではなく、普遍的な不浄観を称名念仏を称え、非田院や施薬院などでの施茶や御仏供茶(オブク茶)の治療儀礼によって、硬直化した構造的なケガレ・ケ・ハレの円環に流されること無く、創造的な混沌からの救いにブレイクスルーしたのだと思います。

 空也は優婆塞・私度僧として諸国を行脚・修行して、21歳で尾張国分寺(愛知県)で出家・得度して自らを「沙弥空也」と名乗って生涯変わることが無かったのです。

 三十代のころに奥州(東北地方)を遊行に訪れた時に、東北には被差別部落が極めて少なかったことを知ったことで貴賤の差別幻想に目覚めたに相違ないと私は思います。

 沖縄、アイヌでも差別部落や差別意識は無かったのです。

 我が国では今日も強い、一つの日本という概念に学会も含めて画一的な国家・社会として規定する幻想に捉われていますが、我が国列島の社会や文化は多様性や二律背反があるとの認識・理解が必要、不可欠なのです。

 我が国社会の初代天皇は誰からで、天皇制のスタートや日本国の名称は何時頃から認められたかのみならず、1945年の無条件降伏の敗戦の事実を歴史的に総括しない現実は、今日の日本国家・社会の不明朗な武士道、国家意識や差別社会を根深くしているのだと思います。

 つまり、社会的に基本的人権とはの認識に欠けているのです。

 市聖・空也は、行基東大寺大僧正、叡尊四天王寺別当になって高いスティタスある地位に付いていますが、977年の最後まで沙弥空也として終生を国家・権門や知識階級のための最澄空海らによる密教中心の鎮護国家仏教であったのを庶民・賤民に眼をむけた仏教として教化救済に努めたのです。

 中世の仏教界の僧門では、学僧、行人、聖の階層がハッキリしていたのですが、「聖」は一倍低い身分で寺内に留まることなく全国を行脚する僧のことなのです。

 十世紀半ばは、上述した延喜式によって、上からの差別社会を規定しようとした時代に、空也はインドや中国とは違った日本仏教たる浄土宗・時宗の先駆者としてケガレの危険性と創造性の両義をパワーとして、負の円環からの転生を果たしたのです。

 最後まで、生まれや育ちの素性については語ることなく貴賤の別なく普遍性をベースとした融通無碍な威力を発揮して、今日的に言えば煮茶・煎じ茶に殺菌力の強い梅干、昆布(茗荷と記されることあり)を加えた喫茶をしながら御仏供茶・施茶によるハライに努めたのだと私は思っています。

 菅原道真が自分のためのケガレのハライ茶では救われなかったのとは異なった世界に空也は昇華していたと言えます。


 ケガレをエネルギーの「気枯れ」・「気渇れ」として枯渇と捉えるばかりでは、深層、多重的価値観のパワーとはなりません。

 ケガレはハレ・ケという固定的な既定された概念に捉われては誤ってしまいます。

 ケガレが動的な気の力となることを忘れてはならないのです。

 そして、それぞれが自らの価値観によって動的な理解が求められます。

 言ってみれば、ニーチェの如く、すべてを肯定した永劫回帰の価値観に通ずることが出来ます。

 それ故に、生きている存在の情熱のミナモトとなりオーラを発する命の輝きを気(ケ)として、「ケガレ」とは動的なエネルギー転換のチャンスとして創造する喜びとするのです。

 私が最も尊敬するマハトマ・ガンジーが「今日一日の命と生き 永久に生きるを学ぶ」をケ・気としていたから大英帝国から無暴力・無抵抗によってインドの独立に導きえたのです。

 大英帝国の綿織物工業を発展させるためにインドの優れた綿織物職人を殺したり、手を打ち砕くような恐怖にもかかわらず、ケガレ・気枯れすることなく自らが糸をつむぎ、無抵抗・無暴力のケ・気のオーラーに帝国がケガレ・気枯れてしまったのです。

 我が国の憲法九条は現実性がないと唱える人たちが「今日一日の命と生き 永久に生きるを学ぶ」べき歴史的事実として理解、納得すべきだと思います。

 ガンジーの時代の帝国主義は、我が国の近世時代の士農工商&賤民制度のような差別社会の武士が問答無用の殺戮が出来た時代だったのです。

 
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