『臨床喫茶学』・・もう一つの茶の道・・9;ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶

 忘れられた衆生安楽への生きた生活喫茶・・9

 ハレ・ケ・ケガレの喫茶を詠んだ菅原道真・・5・・漢詩は梅に始まり、梅に終わる


菅原道真は、頭の良い人で、あらゆることに気がつく(ケがつく)ために権力や人のことが気になる人達から自らの預かり知らぬ所で警戒、嫉妬の対象となり、ケガレ(気枯れ)ることになりました。

 漢詩や喫茶によって、ケガレからケ(気)を求めて、決して個人を恨むことはなかったのです。

 そして、右大臣のようなハレからのケガレから離れて、学問や詩の世界にケの気を求めたのです。

 ハレの世界で栄耀栄華を極めた藤原道長(966〜1027年)も病気になって発熱した時にはケガレた気にケを求めて茶を飲んだと日記「小右記」に書いています(1016年)。

 当時、猛威を振るった疫病からは貴賎を越えて人びとに迫ったのです。

 空也上人(903〜972年)が衆庶に施茶、念仏浄土を願ってオブク茶(御仏供茶)を行なったのはそうした時代なのです。

 菅原道真が「寒草十首」に詠んだような生活弱者や下層僧侶・行人・新人たちによる中世に頂点を迎える無縁社会が芽生えて律令制、王朝政治の矛盾が蓄積した時代でもあるのです。

 菅原道真は学者に戻りたくて右大臣を辞めたいと二度ほど願ったのですが適えられずに、摂関家としての確立を目指す左大臣藤原時平と同僚たる学者たちの嫉妬による陰謀の犠牲者となり、大宰府に左遷されました。

 奈良遷都時代に左大臣長屋王藤原不比等らの陰謀に自殺に追い込まれましたが、菅原道真は、絶望の中に詩を詠い、ハタ・ケ・ケガレの生活律喫茶に希望を求めて、個人を怨む詩を詠うことなく大宰府で人生を全うしました。


 九世紀の中頃からは、花と言えば桜を意味するようになっていたのですが、藤原道真(845〜903年)は、十一歳の時の歌「月夜見梅花」を「管家文集」の詠い始めに、絶筆の詩「謫居春雪」を詠い「菅家後集」の最後の歌としています。

 最初と最後の歌に「梅花」を詠っています。

 詩をその紹介したいと思います。

  菅家文草巻第一より  
   十一歳の時作の始めての詩

   月夜見梅花

 月耀如晴雪  月の輝くは晴れたる雪の如し

 梅花似照星  梅花は照れる星に似たり

 可憐金鏡轉  憐れるべし 金鏡の轉きて

 庭上玉房馨  庭上に玉房の馨れることを


  管家後集より
   絶筆の詩

    謫居春雪

 盈城溢郭幾梅花  城に盈ち郭に溢れて 幾ばくの梅花ぞ

 猶是風光早歳華  なおしこれ風光の 早歳の華

 雁足黏將疑蟿帛  雁の足に黏り將ては 帛を蟿けたるかを疑う  

 鳥頭點著思歸家  鳥の頭に點し著きては 家に歸らむことを思う
 

 そして、平将門の乱、純友の乱による動乱に、行基を継いだような市聖・空也は諸国を優婆塞として苦修練行した称名念仏の元祖で、衆生目線の「御仏供茶」を衆庶に施茶したと伝わります。

 今日も、年中行事の「皇服茶」として無病息災の煎茶として続いているのです。


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