『臨床喫茶学』・・もう一つの茶の道・・8;ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶

 忘れられた衆生安楽への生きた生活喫茶・・8

 ハレ・ケ・ケガレの喫茶を詠んだ菅原道真・・4・・生活弱者に優しい詩「寒草十首」


「寒草十首」の第六首から第十首までの紹介です。


 ・第六首「駅亭人;伝馬のための駅舎で働く輸送労働者」

   何人寒気草 何れの人にか 寒気早き
   寒草駅亭 寒は早し 駅亭の人
   数日忘飡口 数日 飡を忘れるる口(駅亭の働く駅子・伝子たちは、どうかすると数日間もしるかけめしをさえ口にかき             こむことも忘れるほどにおいつかわれる)
   終年送客 年を終うるまでに 客を送る身(年から年中旅客を輸送する身である)
   衣単風発病 衣を単にして 風は病ひを起こす(冬になってもきものはうすい単衣なので、風邪から病気を引き起こし             やすい)
   業廃暗添 業は廃すれば 暗しく貧しさを添う(この仕事 をやめればすぐ貧乏が追っかけてくる) 
   馬痩行程渋 馬さえ痩せて 行程渋りぬれば(駅の伝馬が痩せて、郵便の速度がにぶってくらば)
   鞭笞自受 鞭笞 自らに受くること頻なり(駅亭の働く人た ちは自然駅長らからきびしいいましめの鞭を受ける)


 ・第七首「賃船人;船に雇われて賃金によって働く水手・舟子」

   何人寒気早  
   寒早賃船人  寒は早し 賃船の人
   不計農商業  農 商の業を計らず(彼らは自信で独立して農業や商業を自ら営まない)
   長為僦直身  長く直に僦はれる身となる(いつまでも賃金によって雇傭される身)
   立錐無地勢  錐を立てんとすれども 地勢なし(水上生活者だからであろう 彼らは錐を立てるほどの広さの土地も持             っていない)    
   行棹在天貧  棹を行ること 天貧なるに在り(棹をあやつり、舟をはしらせることも、天性貧しくともしさがに生れついて            いるため)    
   不屑風波険  風波の険しきは屑(もののかず)にせず(海上風波があれるというようなことは、眼中にないが)
   唯要受雇頻  ただ要む 雇ひを受くること頻りなむこと を(彼らの関心事は船主に賃やといせられることがしきりである             かどうかと言うことである)


 ・第八首「釣魚人;釣糸をたれて魚を釣る人」

   何人寒気早 
   寒早釣魚人  寒は早し 魚を釣る人
   陸地無生産  陸地に 産を生むすべなく
   孤舟独老身  孤舟に 独り身を老いまくのみ
   撓絲常恐絶  絲を撓わめて 常に絶むかを恐る(釣り糸を海中に投げたわめて、糸が切れやしないかと恐れる)
   投餌不支貧  餌を投ぐれども 貧を支へず(餌を投げ与えて魚をいくら釣ってかせいでも、貧しきくらしを支えかね                 る)
   売欲充租税  売りて租税に充てむことを欲りす(せっせと釣った魚を売って、租税に充当しようと思って)
   風天用意頻  風天 意を用ゐること頻りなり(風向きはどうか、天気具合はどうかと、魚釣りの漁夫たちは気にかけて              いる)


 ・第九首「売塩人;塩商人、但し、大手の塩商では無く、零細な製塩兼塩商の細民」

   何人寒気早 
   寒早売塩人 寒は早し 塩を売る人
   煮海雖隨手 海を煮ること手に隨ふとも(海潮を汲んで塩を焼くことは手当たり次第にできる仕事だとは言え)
   衝烟不願身 烟を衝きて身を顧みず(藻塩やく煙にむせることもかまわず、煙をついてたち働く。命をすりへらす労働を              している)  
   旱天平価賎 旱天は値の賎きを平にす(日照りがつづいて生産があがるので、塩価が自然の公平な法則で廉く低落す             る)
   風土未商貧 風土は商を貧しからしめず(この沿岸一帯製塩に適する風土は塩商人を貧しくしない)   
   欲訴豪民擢 訴へまく欲りす豪民の擢しきこと(土豪が勝手に威勢をほしいままに、塩の売買輸出にあたって商利を独           占することを、役人に訴えたいと思う) 
   津頭謁吏頻 津頭に吏に謁すること頻りなり(塩を売る人が、輸出港の波止場の辺りで、税関吏などに会って、実情           を訴えることしきりである)


 ・第十首「採樵人;きこり、樵には木こりの意、雑木、薪の意がある」

   何人寒気早
   寒早採樵人 寒は早し 採樵の人   
   未得閑居計 未だ閑居の計を得ず(いつになったら働かないでひまを楽しむことが出来るというめあてもない)
   常為重擔身 常に重く擔ふ身なり(毎日せっせと木をきり出して重い木を肩にかついで運ぶ身の上)
   雲巌行處険 雲巌 行く處険しく(木こりが行くところは、嶮しい山の岨路で、岩群がかかっている)
   甕牖入時貧 甕牖入る時貧なり(家に帰ってくると、木こりの家の入り口はまことに粗末だ)    賎売家難給 賎く売れ             ば家給し難し(とってきた杣木を廉いねだんでは家計の足しにはならなし)
   妻孥餓病頻 妻孥餓えと病いと頻なり(妻も子も餓えてしきりに病気になる) 


 菅原道真の時代は遣唐使による官中心の唐風文化から民間交流がさかんとなり遣唐使は廃止されて国風文化が勃興した時代です。

 つまり、我が国の深層の社会・文化史の育成となり、もう一つの茶の道たる「ハレ・ケ・ケガレの生活律」喫茶を。

 道真は、讃岐から戻ってから、学者であり、自分も望まなかったのですが、宇多上皇の信頼厚く右大臣となりました。

 しかし、大宰府に左遷となったのですが、藤原時平の藤原家支配の権謀術策と学者仲間の嫉妬が故です。


 その後、摂政・関白をめぐって暗闘が行われ、藤原道長が“わが世をば・・”と詠うほどに揺るぎない摂関家の確立をしたのですが、病気になった時には茶を飲んだと日記に記しています。

 世俗の権力者も悩み多く、喫茶に「ケガレからケ」のエネルギー パワーを願ったのです。

 藤原道長も「ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶」によって極楽往生から逃れられなかったとなります。


 菅原道真(845〜903年)は、京都でも大宰府でも茶を飲み、藤原道長(966〜1027年)も自分で喫茶の事実を日記に残しています。

 つまり、嵯峨天皇の喫茶後も、9世紀から11世紀に喫茶が継続していたとなります。

 そして、菅原道真の没年に生まれた市聖・空也上人(903〜972年)によって、行基に継ぐ生活弱者へのハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶が行われたと言えそうです。


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