『臨床喫茶学』・・もう一つの茶の道・・5;ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶

 忘れられた衆生安楽への生きた生活律喫茶・・5


 ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶を詠んだ菅原道真・・1

 私は、菅原道真は、唐風文化と和風文化を紛らかした学者・文人・官僚政治家だと尊敬しています。

 遣唐使を廃止、和漢の詩歌に通じて和漢の界を紛らかした元祖だと思います。

 讃岐守に着任(886年3月)して半年後の10月には漢詩「寒草十首」(管家文草)を詠って、高官でありながら貧しい人たちに優しい目を注いで、租税などの国政での問題点に注目しています。

 その15年後の延喜元年(901年)には右大臣の地位を追われて、即座に大宰権師に降格されて追放されてしまいした。

 「寒草十首」の詩は追放前で「菅家文草」に納められていますが、追放後の詩歌は「管家後集」に集められています。

 そして、酒の嫌いだった菅原道真は喫茶の詩をそれぞれで歌っています。

 歴史上、明確な「ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶」の創世・創生者だとの位置づけで、村田珠光より早く和漢の界の紛らかしを文化的にはハイカルチャーのレベルで実践したのです。


 菅原道真(845〜903年)は北野天満宮主祭神北野天満宮と言えば秀吉が主催した衆生にも開かれたイベント茶会・北野大茶湯の開催地として知られています。

 私は、菅原道真は喫茶を歌に詠でおり、喫茶を『ハレ・ケ・ケガレの生活律』として日常で飲んだ我が国の喫茶史上の元祖だと考えています。

 空海橘逸勢とともに三筆の一人といわれる嵯峨天皇が喫茶を薬用としてのみならず、仙境の世界で「雅弾」の琴を聴きながら漢詩を吟じたりしています。

 嵯峨天皇の場合は、日常の飲み物としてよりも「ハレ・ケガレ」の喫茶を中国趣味としての輸入された団茶の香りを限られた宮廷たちと宴遊趣味的に楽しんだ天皇だと思います。

 菅原道真流罪となった大宰府でも日常化した飲み物として茶を飲んでおり、当時、既に各地の茶園で栽培されていた国産の茶を中国的な団茶・餅茶としてではなく嵯峨天皇たちとは異質な「葉茶」「散茶」「煎茶」を飲んでいたことを「管家文草」や「管家後集」などに詩として残しているのです。


 菅原道真宇多天皇の信任が厚く蔵人頭、右大臣にも任ぜられた高級官僚・政治家であり、本職である学者として高い見識と教養を持った文人でもありました。

 しかし、大宰府では人間的な「ケガレ」に悩まされ、「ケ」や「ハレ」の界へは詩歌によって転換できましたが、喫茶によっでは適わなかったようでした。

 蔵人所天皇家の私的な経済をつかさどる官司が統治する機関です。

 蔵人所検非違使庁とともに天皇直属の機関で、贄を貢進指せるための御厨や天皇家の食材を供御するための統括する役割を担っていました。

 千宗易(利休)家は和泉佐野たる堺の網曳御厨供御人として塩魚座を支配していたのです。

 堺は菅原道真が「寒草十首」に詠んでいるような律令制度による班田、租税などから逃れて自由を求めた遍歴者、無縁者や賤視された人、犯罪者人たちが集まる無縁、公界の場だったのです。

 そうした人たちの「逃れの地」であり「立ち上がり」の場であったのです。

 文化人類学民族学的な「ハレ・ケ・ケガレの生活律」観念が生きた界の代表と言えます。

 そして、天皇家直属で律令体制の管理から外れた海上も自由に通行できる特権たる自由通行権が保障されていたのです。

 つまりは、千宗易天皇家の御厨御供人として利休居士号を勅許され、禁中茶会で茶を点てられたのだとも考えられます。


 ハワイの原住民たちが今もハワイ島で維持する「ポウホヌア・Puuhonua」の自由の場と無縁・公界は共通する所だと思います。

 中世の時代の堺(和泉佐野)などは自由と平和を求めた自由都市で、無縁、公界、楽での交易・市庭(市場)の中心地だったのです。

 中世末期の信長、秀吉に始まる中央集権的な権力によって自由都市も管理されてしまって自由は奪われて、今日にその管理・統制体制は続いているのです。

 日経新聞の連載小説「等伯」での阿部龍太郎による資料的な考察は素晴らしいと思いますが、2011年7月15、16日には信長の戦略・戦術がみごとに記されています。

 昨今、信長や秀吉は楽市、楽座などと自由な市場を促進したと賞賛する人たちが少なくないと思いますが、表面的な規制緩和をしながら今日に続く中央集権的な統制・管理を強めた元祖なのです。

 それ故に、自由都市・堺の商人集団としての「座」と「問」を守るべく努力した利休は秀吉と対立して切腹したのが本当の理由だと私は考えています。

 利休は自分の息子・道安に魚座の権利を譲りましたが、利休死後にはつぶれてしまいました。


 話を菅原道真に戻します。

 前述した如くに菅原道真は中央の高官でありながら讃岐守として地方官に任じており、学者・政治家として今日の学者や政治家が及びもつかないほどに政治的矛盾や地方の現地の庶民生活の実態も知っていたのです。

 貧しい遍歴民の姿は九世紀末の「寒早十首」から明らかです。

 菅原道真は、万葉の時代の山上憶良が詠った「貧窮問答歌」、「子を思ふ歌」に続いた生活弱者に優しい官人だったのです。

 しかし、左大臣藤原時平や藤原一族によって大宰権師として筑前国大宰府に左遷されてしまいました。

 藤原時平は、菅原道長追放後、延喜の改革と言われる菅原道真の改革案をピンはねして実行したのです。

 そして、菅原道真亡き後、追放した首謀者・藤原時平は、怨念、タタリを恐れて北野天満宮の創建を主導したのです。

 
 菅原道真は、大宰府で「ケ・ケガレの生活律」の茶を喫しながら詠っていたのです。

  大宰府左遷前の詩(管家文章)「茗葉の香湯をもって 酒を飲むを免ず」とあり、左遷されて(管家後集)「煩懣 胸腸に結る 起きて茶一盞を飲む 飲み了りて消磨せず」と詠っています。

 喫茶による「ケガレ」から「ケ」へのパワーアップを願っても適わない無念の煩悶が込められています。
  
  大宰府に左遷されることになった時に詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」は梅の花菅原道真をイメージする歌で、良く知られた学問の神を祭る早春の北野天満宮まで娘に頼まれて受験のお守りをと訪れたのを思い起こします。

 また、菅原道真の顔像が彫刻された純金のメタルを私は大切にしています。

 菅原道真は「ハレ・ケ・ケガレの生活律」としての私のお守り神です。

  
 『菅家後集』にある梅の歌です。

   梅花

   宣風坊北新栽処  宣風坊の北 新たに栽ゑし処
   仁寿殿西内宴時  仁寿殿の西 内宴の時
   人是同人梅異樹  人は是れ同じ人 梅は異なる樹
   知花独笑我多悲  知りぬ 花の独り笑み 我は多に悲しぶことを

                                
 菅原道真は高官でありながらの「寒草十首」で詠われたように衆生安楽を願った「ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶」した文人の元祖だとなります。

 私は、春まだ浅き時の梅の蕾や芽、梅の花、梅干には「ケガレ」を「ケ」、「ハレ」の「気」の「美」を感じるのです。

 「ケガレ」とは「気枯れ」を意味します。

 また、私は「ワビ・サビ」で言えば、梅の蕾には「サビ」の美を感じます。

 私が「サビ」より「ワビ」が好きな理由です。

 私にとって、「サビ」の美には「ケガレ」から「ケ」に転ずる閑雅の「気」が漂うからです。

 また、私は「ケ」や「ハレ」の茶碗より「ケガレ」感が漂う窯で焼いている最中やその後に傷ついた茶碗を好み愛用する理由です。

 「ハレ・ケ・ケガレの生活律」観念は、「ワビ・サビ」観念とも通じていると思います。


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