『臨床喫茶学』・・もう一つの茶の道・・4;ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶
 忘れられた衆生安楽への生きた生活喫茶・・4


 行基と茶・・3・・「ハレ・ケ・ケガレ」の喫茶・茶の湯の元祖

 行基聖武天皇とともに茶とのかかわりが今日に伝わっているのです。

 行基は私度僧、一乞食僧として行脚しています。

 ポルトガルの1595年版「地球の舞台」にあるルイス・テイラ作「日本図」に行基が創始したと伝わる「行基図」があり、長く日本地図の範型となったそうですが、行基が如何に各地を行脚したとの事実を示すものだと思います。

 聖武天皇が疫病や飢饉などによる諸国不穏の宥和策として施薬院悲田院を設けて病人,孤児や浮浪者を保護する施設を作りました。

 茶は古くは「荼」(ダ、ト)という苦菜を示す漢字が使われています(正倉院文書紙背)が、野菜を意味する言葉としても用いられたためにどちらを意味するかが問題となります。

 茶であれ、野菜であれ、今日的に言えば生命力維持に必須な栄養機能成分を含み、薬用、健康のための食品、飲み物としての歴史を伝えるものだと思います。

 そうした茶の持つ薬用・健康食品としての食材・飲料として施薬院悲田院で供されたのだと私は思っています。

 つまりは、施薬院悲田院は施茶、施粥の元祖であると私は考えたいのです。

 その主役が行基であり聖武天皇だと言えます。

 行基聖武天皇日本民族学的に言う「ハレ・ケ・ケガレ」の茶の元祖だと私は考えています。

 もう一人加えたいのが同時代の遣唐使として唐に渡った官人・万葉詩人たる山上憶良(660〜733年)で、茶を飲んだ可能性も高く、地方官として貧困者、病人、子供などの生活弱者に優しい官人最初の「ケ・ケガレ」の気を注いだ人物であり、行基らの茶の元祖グループになると研究が進めば明らかになると私は推定しています。

 次に続いたのが、官人・学者・茶を詠んだ詩人・遣唐使に任ぜられたが遣唐使を廃止したと伝わる菅原道真(845〜903年)だと思います。

 讃岐守として赴任した時に生活弱者に優しい目を注いでいるのです。


 私は、既に、邪馬台国卑弥呼の時代から、ハレ・ケ・ケガレの我が国の民族的観念は始まっていたと思うのです。

 そして、茶はハレ・ケ・ケガレの供養、霊魂、蘇生、復活の流れの儀礼や生活律に取り入れられるようなって重要な意味を持つようになったのだと思うのです。

 行基聖武天皇、加えて山上憶良は、喫茶・茶の湯とハレ・ケ・ケガレの生活律にかかわった歴史上の人物と想定しています。

 私の「もう一つの茶の道」文化のキーワードは、「ワビ・サビ」より、「ハレ・ケ・ケガレ」の生活律だとの提言です。


 行基と茶について次のような歴史的記述が伝わります。

 ・ 「東大寺要録 巻第四」の天地院の条に薬木を諸国に植えたとありますが、薬木は茶木の誤写だと言われています。

 ・ 「三河国薬王寺」と言われる今日の愛知県安城市行基が植えたという茶園があったと伝わります。

   その史料は、「本朝文粋」にあるのですが、その記述者は慶滋保胤(ヨシシゲノヤスタネ)です。

   慶滋保胤については今後取上げたいと思いますが、平安時代中期の念仏僧の元祖にして衆庶への施茶で知られる市聖・空也上人と親しかったのです。

   慶滋保胤は後の「市中の山居」と言われる草庵の茶室の考え方を思わせる、日常は官に使えながら邸に帰ると脱俗の空間として池亭で「心、山中に住するが如し」と本来の人間の姿を取り戻していたのです。

   それ故に、空也上人と慶滋保胤もハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶人だと思います。


 聖武天皇は729年(天平元年)に「季御読経」と「引き茶」と言われる「行茶の議」が行なわれて、百人に及ぶ僧が内裏に招かれて茶を賜ったと「公事根源」にあるのです。

 「季御読経」(キノミドキョウ)は朝廷で僧が大般若経などを国家安泰を祈願して講じる儀式で春と秋に行なわれた行事です。

 「引き茶」は行事が3〜4日続いて行なわれたのですが、その間に一定の作法によって茶が供せられたのです。

 それ故に、「引き茶」は茶会の原型だとしても注目されています。

 つまりは、宮中で茶が飲まれていたことを示す事実でもあります。

 私は、「引き茶」は「ハレ・ケガレ」の喫茶の元祖だと思います。

 
 現在、日本へ茶の伝来を伝える資料は興福寺一条院跡など各地から出土する釜、青磁茶碗、茶托、水中などの中国由来の陶磁器から八世紀末まではさかのぼられています。

 しかし、ヤマト政権は607年の小野妹子、614年の犬上御田鋤と遣隋使を派遣しています。

 それ故に、朝貢関係として、その時の貢物として茶が含まれていたことは十分考えられると私は思うのです。

 我が国の茶史では、782年には既に、茶は漆、竹とともに十分の一税の課税の対象となっているのです。


 従来、永忠や最澄らが805年に遣唐使として唐から持ち帰った茶の実を日吉茶園に植えたことに始まるとされてきました。

 しかし、現在は八世紀までさかのぼっていますが、今後の研究による新たな発見により、茶の伝来は前述の如くのように時代はドンドンさかのぼることになると思います。

 その後に続く有名な茶史は、814年、815年の嵯峨天皇藤原冬嗣や永忠らとの喫茶の歴史です。

 また、空海は814年の奉献表に「茶湯」の文字を残しています。


 一方、中国の喫茶史は、「僮約」という資料から紀元前後の雲南省地域に始まる喫茶の発生です。

 その「僮約」での茶の文字は我が国と同様に「荼」の漢字となっています。

 しかし、既に紀元前316年には四川省が茶の産地だったと知られていたのです。

 三国志では272年には茶が飲まれていたとあります。

 茶が苦菜の一種として食材から始まり、漢方湯薬、薬湯として飲まれ、生水は水質が悪い中国では飲料として飲まれて発展したのだと思います。

 そして、陸羽によって、健康性、精神性も含めた文化的飲み物としての喫茶文化の基礎・基盤が完成されたといえます。

 有名な陸羽による精神性も含めた総合的な茶書が書かれたのが760年頃ですから我が国に茶が伝わったのは遣隋使の時代までさかのぼれるのではと私は思っているのです。


 魏志に表れる邪馬台国卑弥呼の時代には、朝鮮半島や中国大陸と交易は行なわれ、既に取上げました商品の交換や交易が行なわれた市庭で国々の産物を交易しています。

 魏の皇帝から「親魏倭王」の金印をもらい、その他の贈り物として茶が含まれていたとしても不思議ではないと考えます。 

 茶の伝来については長い間、最澄空海、永忠などの遣唐使によるとの今日的に言えば、官による有名人エリートによるとしてきましたが、問題があるとの指摘があります。

 卑弥呼の時代に既に、朝鮮半島や中国大陸との交易がなされ、市庭が行なわれていたとの歴史は、歴史上の有名人たちではない海民集団たちによって、茶やその種子が倭の国にもたらされていた可能性は十分にあると思うのです。

 卑弥呼が巫女、シャーマンとしての権威を持っていたことは倭国に続いた日本の天皇、及び民衆文化としての「ハレ、ケ、ケガレ」の祓い・清め・禊・祭祀に茶が用いられていたのではないかとの私の推定と願望です。

 それ故に、喫茶が生活文化、仏教・神事や精神文化として発達して今日に伝わっていると私は言いたいのです。

 古墳や民衆文化の史跡の発掘が進めば茶の伝来史はさかのぼると私は確信しています。

 「もう一つの茶の道」は日本の衆生安楽としての「ハレ・ケ・ケガレの生活律」喫茶・茶の湯がキー!!!

 次回は「ハレ・ケ・ケガレの生活律」喫茶を詠った文人菅原道真とします。


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