『臨床喫茶学』・・もう一つの茶の道・・3;ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶

 忘れられた衆生安楽への生きた生活喫茶・・3


 行基と茶・・2

 私度僧・行基(668〜749年)は、百済帰化人を両親として現在の堺市地域で生まれました。

 百済系の職能民として橋を架けたり池や港の増改築する職能・技術をもった家系に生まれたのです。

 堺が当時から大陸や半島から高度の技術をもって渡来していたことを示します。

 行基が職能民、私度僧や課役を忌避した平民の逃亡した浮民、遍歴者が集まる浜、中洲、河原での市庭(市場)で活発な交易が行なわれた無縁、公界の自由な社会で育ったのです。

 行基が社会奉仕として橋や堤を造ったり、後の東大寺建立することが出来る技術を持っていたことが判ります。

 天然痘などの疫病、天災による飢饉や弘嗣の乱などの戦乱によって聖武天皇による仏教による鎮護国家のための東大寺大仏や諸国の国分寺建立は困難を極めたために、弾圧・禁圧を緩和して行基らの自発的な労働力に依存せざる負えなくなったのです。

 そして、万葉集などで歌われる今日の男女交際の場たる歌垣を催したり、融和策として浮浪者や病人のための施薬院悲田院などの施設を設けて社会の動揺を抑えようと努めました。

 聖武天皇が遷都や大仏建立を近江の紫香楽に始めたのですが、行基は橋を架けるなどの奉仕をするのを知ることになり、後に東大寺の大仏造営に弾圧の対象だった一乞食僧・行基らによる自発的な協力が必要だったのです。

 745年、大僧正に任じられた行基勧進による自発的な協力を呼びかけ、始めは紫香楽での大仏建立事業を推進したのですが、山火事などで貴族や僧侶などが平城京へ遷えることを望んだために大仏造営も平城京に移したのです。

 行基は749年にはこの世を去り、大仏建立は困難を極めたが陸奥で金が発掘されるなどの幸運に752年に完成して開眼供養が虚構されたのです。

 開眼供養は天笠人(インド人)の導師・菩提によってなされたのです。

 当時、既に、国際交流が盛んだったことを示す盛大な供養だったと判ります。

 つまりは、仏教による鎮護国家のための東大寺の慮舎那仏建立は、百済帰化人系の血を引く行基ともども国際交流なくしては不可能だったと言えます。

 日本国建国期の困難は海外との交流や協力があってこそ乗り越えられたのであり、今日にあっても我が国が国際的な閉鎖思考は農業も含めてどんな領域であれ望ましくないことだと示唆しています。

 私度僧・行基聖武天皇によって大僧正となって大仏建立で協力したのですが、二人は我が国の喫茶文化の歴史上の人でもあるのです。


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