『臨床喫茶学』・・もう一つの茶の道・・2;ハレ・ケ・ケガレの生活律喫茶

 忘れられた衆生安楽への生きた生活喫茶・・2

 行基と茶・・1

 
 もう一つの茶の道は、何と言っても課役忌避して逃亡・浮浪した民衆の救済や社会事業に尽くした私度僧・行基(668〜749年)から始めなければならないと思います。

 私度僧とは、私的に自ら髪を切って、遊行・乞食をしながら仏教の教えを説く僧侶なのです。

 聖武天皇東大寺大仏殿建立も、禁圧していた行基に協力を要請して大僧正に任命せざる終えなかったのです。

 二人とも、茶とのかかわりがあると今日に伝わります。

 二人は、701年に日本国初代天皇にして女帝・持統天皇太上天皇として大宝律令を制定、唐の女帝たる則天武后遣唐使を派遣して「日本国」を認めさせたのですが、日本国誕生直後の藤原氏藤原不比等)台頭による社会的混乱の時代に生きたのです。

 しかし、その後、今日に至るまでの日本の歴史に切っても切れない律令制による社会・政治的歴史は、「もう一つの茶の道」に深い関係があり、「もう一つ」の千宗易千利休)を知るためにも避けて通れません。

 そこで、茶と行基聖武天皇を理解するために、天皇誕生、日本誕生の時代からの日本の社会・政治を知っておきましょう。

 時代の社会的背景を理解していた方が、今日に生かすことができるからです。

 661年、女王・斉明か額田王の歌と伝わる“熟田津(にきたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかいなむいま漕ぎ出でな”と朝鮮半島へ出兵を目指したが、水軍は白村江で663年に唐と新羅連合軍に壊滅的な敗北を喫したのです。

 その敗北後の七年間は大王の地位は空位状態となり、中大兄が大王天智として即位しました。

 しかし、弟の大海王子との対立となり、壬申の乱を制した大海人は673年に飛鳥浄御原宮で即位して、大王天武となったのです。

 そして、大王天武は、「現御神」として天下布武の“天皇”たらんと公私の場を区別し、681年に大后鸕野讃良(後に天皇・持統として公式の初代天皇となった)に浄御原令の編纂を命じたが、686年に死去して正式な天武天皇としての即位がで出来ませんでした。

 しかし、689年に大后鸕野讃良は完成した浄御原令を発して、690年に始めての公式な天皇位について持統天皇となったのです。

 701年に大宝律令を施行して本格的な国家の体制を整え、「日本国」の確立をめざして国際的な承認を得るべく栗田真人たちを遣唐使として派遣、時の女帝・則天武后に対して「倭国」を「日本国」と名乗ることを承認させたのです。

 つまり、倭国天皇初代の持統天皇(690年即位)は、日本国の初代持統天皇(702年)として当時の国際社会に認められたことになります。

 日本国建国時は本州の東北北部、南九州を除いた地域、四国、九州の島々に及ぶ畿内中心の国家としてスタートしたのです。

 沖縄諸島は南方文化の影響下にあり、北海道は擦文文化と言われる文化圏に属していたのです。

 班田収授の法によって、国家の支配下に平民・良民に口分田を与えて租が賦課されたのです。

 しかし、租は神や首長への初穂の貢納を起源としています(輸祖田)が、天皇の食料(供御)にあてる官田、神社や寺院に与えられた神田や寺田は租を収める必要のない不輸祖田でした。

 加えて、課役には、調、庸、雑徭、軍役などがありました。

 調、庸では、米による納税だけではなく、織物、製鉄、木器製造などから、製塩、漁労による採集など当時既に多様な生業が行なわれており、平民の間で分業が始まって、市庭(市場)や河原での交易も活発だったのです。

 つまり、職能・技術を持った人たちを国家が職能民として育成、組織化に努めたのです。

 その後の日本社会の職能民の発展が今日の技術立国に繋がったとも言えます。

 そして、天皇の食膳に供される魚貝、海藻、果実などの山野河海の産物、つまり、海の幸、山の幸が「贄」(ニエ)として天皇直属の網曳などは、律令国家としての水田を基礎とした土地制度とは枠外の供御人や神人の制度として中世にも及んで自由な交易が可能だったのです。

 今後取り上げますが、千宗易(利休)の先祖は、まさに、和泉国佐野の網曳御厨供御人や神人として天皇春日大社と深いかかわりがあったのです。

 大宝律令の選定に貢献した藤原不比等の娘が後の聖武天皇となる首皇子を産み、藤原氏天皇家との婚姻関係となり勢力をのばすと、天皇一族や他の貴族との抗争による混乱を誘発しました。

 その混乱に賦役を忌避するために平民の逃亡、浮浪が頻発して、天皇家一族や貴族に私的に使えて保護下に入る人たちや自分から髪を切って僧侶となる私度僧が表れて民間を遊行したり乞食をしながら仏教の教えを説いたりするようになったのです。

 行基やその弟子たちはそうした私度僧集団だったのです。

 平民の逃亡者、私度僧、職能民・芸能民や供御人や神人らによる市庭、河原での活動が「無縁」、「公界」、「楽」の自由な交易・交流社会の発生となり、中世の活力社会を担ったのです。

 行基空也叡尊千宗易らによる 「もう一つの茶の道」は、日本国家創生・創造期の社会と深い関係にあると理解できます。

 逃れの場としての中洲、河原、浜などに「許し」の場としての自由な「無縁」、「公界」、「楽」の「市庭(イチバ)」となり、交易と互酬が我が国の農本主義とは異なった社会・文化を発展させ、「もう一つ」の喫茶・茶の湯文化の芽となったのです。

 しかし、中世末期の織豊時代に始まるその以後の今日に及ぶ中央集権的な権力は、画一性を強くして、喫茶・茶の湯文化は「ケ」の文化性を強くしたのだと思います。
 
 
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