臨床喫茶学・・レトロ・モダンの喫茶ワールドでライフスタイルを学ぶ・・8
日本の国の成熟とはを考える・・6・・やせ我慢のお笑い美芸家・北野武(ビート武)の日本的未成熟と成熟への挑戦・・・1
東北関東大震災と福島第一原発事故に伴う国家、人類的悲劇に直面しています。
日本の『未成熟』・『成熟』が露になります。
こうした時にこそ、人類は笑いが大切だと私は思います。
喜怒哀楽を越えた笑いが人の心に生きている喜びと意欲を呼ぶのです。
大和絵の始まりといえる玉虫厨子の須弥座右側面の絵画「捨身飼虎図」は異時同図法の原点であり、我が身を虎に食べさせる捨て身にすらも漫画的な笑いを含ませているではありませんか。
民衆に心を配った山上憶良、行基、空也上人、一休宗純、良寛の心に宿り、信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画に始まる日本の漫画文化には笑いがあってこそのレトロの伝統があります。
茶の文化にあっても、佐々木道譽、利休、古田織部には前衛の笑いがあります。
笑いは人の生きる善悪を越えた生きる姿をみる心がなければなりません。
そして、「悪意の如く振舞う気位の高い慈愛」(ニーチェ)があります。
不安・不信の時代にこそは、笑いの心によって自らの「存在の情熱に滅びる」(リルケ)を楽しむのです。
そうした現代の私が好きな笑い文化を支える美芸家は、北野武(ビート武)とポツネン・ラーメンズの小林賢太郎をあげます。
今回からは、自称テレビタレントが本業と言う北野武(ビート武)を話題とします。
しかし、私は迎合しない「やせ我慢のお笑い美芸家」だと思います。
『芸』には、お笑い芸人であることを原典としながらも、映画、絵画などの活動も含んだ『芸』の意味です。
つまり、お笑いをキーとした美術家を私は美芸家と言いたいのです。
その思考で前回取り上げました村上隆について言えば、漫画・マンガをキーとした美芸家だと思います。
若い村上隆の日本的アバンギャルドなアグレシブさに対して、北野武は日本的ハングリーな『辛抱』、『やせ我慢』、『迎合しない』美芸家だといえます。
北野武が育った時代は私も経験、味わった時代であり、理想に向かって『やせ我慢』のハングリー時代でしたが、村上隆は、1962年生まれで1970年代以後の虚構の時代と言われる時代に多情多感な年を迎えています。
そして、二人の美芸家は日本文化のレトロを踏まえた上での現代の不可能性の時代と言われる時代と向き合っているのです。
それ故に、最早、戦後は終わったと敗戦は忘れたが、アメリカ型資本主義経済のぬるま湯に埋没する日本の『未成熟』・『成熟』に挑戦する二人の美芸家としての意欲は反対方向を向いてはいるが背中合わせに共通する面白さがあります。
臨床喫茶学が目指すレトロ・モダンの美芸家なのです。
私は、北野武には一休宗純と共通する偽悪家的な心を感じ、人間の赤裸々な姿を明らかにした上での生き方を求める姿勢があり、その著作物や映画の美芸に注目してきました(「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」、山中直樹著)。
今日の日本の『未成熟』・『成熟』を考える上で大変面白く、北野武流の美芸家としての切り込み、主張が展開されています。
現代社会の日本、日本人をえぐって批判しながら、北野武流のあるべき方向性を提示しています。
臨床喫茶学的日本の『未成熟』・『成熟』を思考する上では次のような視点がキーです。
1)価値観による選択の自由・・多様性の容認
2)良心的暴力・戦力拒否
3)人は1)、2)を必要条件として、健康で文化的に生きる権利がある
次回では、私が注目する「超思考」で北野武の指摘を話題としたいと思いますが、上述の1)、2)、3)を踏まえていると思います。
『 お笑いをアートする美芸家・北野武
お笑いにハングリーして
お笑いを日常茶飯・常住坐臥して
お笑いに冒険して
お笑いに離見の見・観・感・勘をして
お笑いに生きる力を見た・観た!
刹那の笑いに永久あり!!
お笑いで職人と芸術家の界を紛らかし!!!
絶望にお笑いを
迷える羊にお笑いの心を
お笑いに生きる喜びを 』