臨床喫茶学・・レトロ・モダンの喫茶ワールドでライフスタイルを学ぶ・・4

  日本の国の成熟とはを考える・・2:・・世界は「環境管理型社会」に変わった!!


  IT革命によって権力機構、社会システムは変わり、国の内外を問わず、権力、社会が「環境化」した現実が日常茶飯に起こっています。


  ・ エジプトのムバラク政権も、チュニジアに始まる長期政権打倒の連鎖に崩壊して、今や、中東の国々に波及しています。

 遂に、長期にわたる専制国家も武力・暴力革命ではない体制変化たる『民衆・市民革命』が起こるようになったのです。

  今や、イランにあっても一万人に及ぶ人たちの反政府運動が起こり、武力・暴力介入による血なまぐさい『民衆革命』ドミノが誘発されるかが注目となりました。

 そして、世界中のネット規制専制国家にも『民衆・市民革命』の連鎖・ドミノとなるかどうかです。

 但し、民衆革命の混乱後の体制や秩序がどうなるかは課題。

  しかし、今や、世界はアメリカによる一国支配はおわり、国連、G8、G20などによる国際的な国家間による管理機構も混沌で調整機能不全状態となっていますから世界的な混乱時代、つまり、予測不可能性の時代なのです。

  ・ 我が国にあっても、名古屋市市長選挙で河村市長が投票の七割を獲得して当選するほどに、自民党民主党などの既成政党に対して民衆は不信となっていることが判ります。

 我が国も既得権益者による「社会の不公正」に対する『民衆・市民革命』の連鎖・ドミノが起こりかねないほどの不満が蓄積されている社会状況にあるのです。

 但し、形を変えたイエス集団議員や既存の金権体質の議員たちによる当選するためのクラガエ議員集団が取り巻くようになれば、民衆の離反も早いこと間違いなし。

  ・ 公然の秘密たる大相撲での八百長事件も既得権益集団による旧態的管理体制では覆い隠せなくなっているのです。

 法的根拠のない国技としての伝統的な大相撲の興行がスポーツとしての装いで覆い尽くせなくなったと言えます。

 一部の人たちによるとしてトカゲの尻尾きりでは最早限界。

 しかし、大相撲界が内包する問題・課題は、今尚、日本の体質に深く根ざしており、IT革命による変革が出来たら他に与える影響は大きい。

  ・ 東京目黒の殺傷事件も面識はないが目に付いた家にお金目的で引き起こした事件とのことで逮捕されました。

 手の込んだ犯行前後の装いや逃避行動は単に偶然なのかと疑問もあります。

 最早、人の言動、一挙手一投足の行動はトレースされているを前提とした管理社会。


  こうした国内外の社会現象や事件は、IT革命により従来型の思考・行動では通用しないことが明らかとなった例です。

  アメリカは、9.11同時多発テロ後にアメリ愛国者USA PATRIOT ACTUniting and Strengthening American by Providing Appropriat Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001)を制定して、すべての通信、行動、金融活動などは追跡可能なシステムを構築したと言えます。

 USA PATRIOT ACTでは、USA NATIONALではなくてUSA PATRIOTとなるようにした見事な語呂合わせには厳しい法律であるにもかかわらずアメリカ的文化とユーモワを感じるではありませんか。

 国家による追跡のみならず、ツイッターTwitter)などによるつぶやき、フェースブック(Facebook)を代表とするSNSソーシャルネットワーキングシステム)、ユーチューブ(You Tube) などによる映像・画像、ブログ、メールのみならず各種の検索システムもGoogleによるリアルタイム検索も可能なほどに情報発信システムが容易に国家を超えて世界中をさえぎることが出来ないほどに飛び廻る時代となりました。

 つまり、IT革命によるネットワークやユビキタスなコンピューチングが管理する質的な社会構造の変化が明確となったのです。

  二十世紀末までの世界を支配した社会・権力構造は、東浩紀・大澤眞幸による2001年のアメリ同時多発テロ一年後の対談自由を考える 9.11以降の現代思想』(NHKブックス、2003年)で変わったとの社会学的指摘が今日では連日、具現化の連鎖・ドミノが起こっています。

 彼らによる指摘のキーは、9.11以降は、今までの規律訓練型権力から環境管理型権力社会に変換したとの議論です。

 「規律訓練型権力」とは、神・宗教、法、父権、道徳などのような「ネバナラナイ」と人間の主観的な内面を形成する学習・訓練による自己規制を権力基盤とする統治で、二十世紀末までの支配基準となってきました。

 「規律訓練型権力」は、人の行動を物理的に制限する権力として、ひとりひとりの内面に倫理の権力、規範・規律を植えつける権力です。

 しかし、現代社会全体が何事によらず、既存の専門家、権威者と称する学者や評論家を含む人たちや政治家などの言うことにリアリティがなくなり、期待できなくなりました。

 現実の現場社会で起こっていることが、変転が激しく科学技術のみならず、従来の哲学、思想などとのギャップがおおきくなり、最早、信頼や通用性が乏しくなったのです。

 テレビなどで識者と称する人たちの“発言”がずれてしまっている理由です。

 つまりは、「規律訓練型権力」の基盤の崩壊につながったのです。

 私も、現場社会の変転を体現すべく、電子カルテ、3D画像のパソコン使用に慣れるように、パソコン、携帯のみならず、ノートパソコン、iPADなどの多機能タブレット端末によるメール、ネット、iチューン、ユーチューブに親しみ、ブログ、日米のフェースブックツイッターに書いたりして発信し、スカイプを喜び、リアルタイム検索を行い、電子書籍も出版する《「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」アップルのアップストア(App Store)から》などとIT革命の何たるかを肌で知るために実際の利用に勤しみ、現実の現場社会を実感する努力に努めています。

 また、家でも環境管理のためのセキュリティーシステムを導入しています。

 今日の日常では現場社会とのギャップの結果として、既存の概念では不可解な現象が起きている現場のフィールドワークやカンセリングなどのデータベース化が重要となり、社会学や心理学の果たす役割が大きくなっているのです。

 臨床喫茶学も同様の役割を果たすをキーとして日常茶飯、常住坐臥を大切とするのです。

 日常茶飯の生活文化である喫茶・茶の湯のレトロ・モダンの現場体現の具現化を求めて怠らないように努めています。


 2001年9.11同時多発テロ以後は、「環境管理型権力」なるIT革命によるネットワークやユビキタス・コンピューティングが秩序形成基盤となる質的な転換が起こったことが明確になったと判りました。

 多様な価値観を共存できる多文化な社会で、彼らはポストモダンなシステムと呼んでいますが、人間も家畜を管理するようなシステムでもあります。

 つまり、コミュニケーションは純化して機械との相互交換が可能となり、人間化の極点での動物化が起こるのです。

 人間的水準が、逆に、非人間的なものへの反転があるとの指摘は当を得ていると思います。

 集合無意識化の中に埋没しながら、多様な価値観、多文化主義的な、お互いの差異を認め合うことが求められるのです。

 ジャック・アタリが予告するノマド社会の到来です。

 自由で多様な社会と管理されている社会が現代社会なのですが、古典的な意味での自由の拡大でもなく、古典的な意味での管理の拡大と騒ぐのも肝腎なことが抜け、嘘っぽい古典的な社会正義と言えるのです。

 自由で多様な社会と管理されていない社会との言ってみればCross Coupling Reactionが可能かどうかが問われます。

 しかし、「環境管理権力」では、権力は「環境化」して、それぞれ人の単独性の上で、匿名性、透明な環境下に、確率性、偶有性(不可能性と必然性の否定)が支配して、突如として個人が身に覚えのないことに巻き込まれる可能性がでてきました。

 匿名性は携帯やネットの移動や履歴、履歴、監視カメラによって、非匿名化の転化が可能な社会を形成しているからです。  

 東・大澤は『個人の「人間的な」自由は最大限に保障されながら、他方で、その個人が群れをなしてしまった時、群れを群れのままに、即ち、「動物的」なままにしておきながら個人認証して環境管理してしまう社会』として、生権力に人間的側面と動物的側面があるとなります。


 それ故に、国家権力が個人情報を丸裸にする権力を持つならば、人々、市民も国家を丸裸にする権利を持たなければ、突如として、例えば、家畜の中から引き出される如くの偶有性な摘発、犠牲になる可能性があります。

 その上で、平等社会の必要基準とはが求められているのです。


 「不可能性の時代」の著者・大澤真幸の指摘する虚構の時代から不可能性時代ゆえの社会にあって、山下範久(「現代帝国論」NHKブックス)が言うポランニー的不安・不信の時代の今日を知るためにも、是非ともオタク系を知る社会学者・東浩紀との対談書「自由を考える 9.11以降の現代思想」の一読をお薦めです。

 我が国の社会は、表面的にはともかくとしても、まだまだ、IT規制には根深いものがあります。

 『文化・文明的な内なる衝突』が起こらないようにしたいものです。

 日本の国の成熟とはを考える上で、アレクサンドル・コイジェーヴによる人間像を模索しながら日本を旅行して、『生に意味を寄らせず、内容を欠いた純粋な形式と戯れ続ける日本人のありかたにショックを受け、「日本的スノミズム」を顕彰』と耳の痛い日本社会の現実にも言及しています。

 臨床喫茶学が求める平和な日本の国の「未成熟」、「成熟」如何にが問われる課題です。