臨床喫茶学・・レトロ・モダンの喫茶ワールドでライフスタイルを学ぶ・・3

 
 日本の国の成熟とはを考える・・1

  最近の海外の若者や大学では、日本語や日本の国について学びたいとの動機となるのが、日本語が話せると将来何かと有利だからとの理由ではなく、レトロ日本の源氏物語夏目漱石を学びたいとの希望の人たちに加えて、モダン日本のアニメやマンガなどのポップカルチャー・大衆文化に興味を持った人たちが増えていると言われています。

 日本のポップカルチャーは、今やグローバル社会でクール・ジャパンとして受け入れられているのです(「日本的想像力の未来  クール・ジャパノロジーの可能性」東浩紀編、NHKブックス、2010年)。

 その本の中で、日本的未成熟力について、アメリカのキース・ヴィンセントが『「日本的未熟」の系譜』と題して述べていますが、我が臨床喫茶学として、日本の「未成熟」から「成熟」を思考・志向する上で大変素晴らしい指摘だと思います。

 黒沢清監督による映画「トウキョウソナタ」を取り上げていますが、既存の成熟・成長概念から脱した日本が目指すべきレトロ・モダンの「未成熟」、「成熟」の日本力・クール・ジャパノロジー、つまりは、本来、喫茶・茶の湯が内包している臨床喫茶学の思考です。

 映画では、次男の息子が中学進学にあたり、音楽学校進学を希望します。

 父権・パターナリズム的父親によって顔を殴られても屈することなくピヤノをやりたいからと両親に内緒で給食費をピアノレッスン費用にしてまで意志を貫こうとしました。

 そして、映画のラスト場面は音楽学校でのオーディション風景で、少年がクロード・ドビュッシーの「月の光」を静かに、美しく、ヴィンセント指摘のミニマルな演奏シーンで終わっています。

 ミニマル思想は、ワビ・サビのマイナス・負の思想に通じます。

 少年がピアノを弾く姿は、まさに、臨床喫茶学が目指す文明的な日本のレトロ・モダンが思考する「未成熟」から「成熟・成長」の道を示していると思います。


 十八歳の長男は、自分の将来を模索するために、外国人傭兵となるべくアメリカ軍に日本人として入隊しようと入隊申請書へのサインを求めて両親に言うのですが、父親は「日本にいて出来ることをやれ」と怒ります。

 しかし、長男は母親からも自活・自立する場面として、バスの出発シーンで息子が母親に敬礼する姿で象徴的に映されています。

 そして、長男は、戦地から家族に手紙を書いて、「アメリカだけが正しいわけではないことを知りました」、アメリカ軍の撤退の後にも「この国に残って、この国の人たちのことを理解したいと思います」と軍事的ではない自分がなすべき道を示唆する近代的自我を持ったポリホニー(polyphony)性あるグローバルな意味での大人の「成熟・成長」シーンを暗示しています。


 二人の息子は、「未成熟・成熟」、「成長」が必ずしも軍事力・暴力を持つことではない多様性・多義性を模索する姿、生き方を示す強さと意志を持っていることになります。


 映画では、今日的な核家族での無縁・弧縁を課題にしていますが、母親は職業的主婦としての姿ですが、父親は日本的「未熟さ」の典型を暗示しています。

 会社を解雇された父親は、家族内での父親権たる権威の装いのためか家族に告げることも出来ずに、毎日、“出勤”してハローワークに通いますが、“あなたは何が出来ますか”と個人力を聞かれますが、会社組織を外れて外の社会での情けない無力な姿が映しだされています。

 フランス作家・サガン(Francoise Sagan)が十八歳で著した「悲しみよ、こんにちは」で“群れていても孤独”と言っていますが、我が国の「弧縁・無縁」での核家族の日本的「未成熟」が浮き彫りにされています。 

 “この頃の若い者は”と言って価値観の多様性・多義性を理解しない独善的なパターナリズム体質の大人は社会的にも同様な言動体質にあり、根深い課題だと思います。

 社会的にも“集団”から外れたら情けない無力をさらけ出す「未成熟」!!! 


     『  未成熟・成熟

       日本の未成熟なポップ、サブカルチャーは世界の注目の的

        日本の経済力やハイカルチャーよりも元気だよ

         経済成長支えた大人の会社人間は外の社会や家族内でも弧縁
の孤独

          若者世代は平和な多様性・多義性ある「未成熟ー成熟」の道を
知る

           近代的自我に目覚めているは嬉    』