「臨床喫茶学」のための「信天翁(シンテンオウ)喫茶」・・19

「臨床喫茶学」・・お互いが平和で心豊かになり健康で文化的な生活実践法を学ぶ・・19

  「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(山中直樹著、アマゾン、Dr.BEAUT・ソフィーリッチなどでネット販売中)


 「淡食麁茶」の今日的意味・・14・・健全な身体に健全な精神が宿る生活実践力を養う知識を得るために・3
  「淡食麁茶」については、まず、栄養がドウだコウだと言う前に、時と場合により、人それぞれが好みにより、楽しく、美味しく食べるが一番となります。

 日常茶飯にあっては、兎に角、空腹を満たすためから始まり、それぞれの食スタイルがありますが、私流の好みとしてのお話とします。


 日常的な家庭での食事は、前回取り上げたような地産地消型の食材で、出来れば、自分も含めて料理に参加して整えたいものです。

 取り分け、自分で育てたり、捕まえたり、友人などの仲間からもらった野菜やジビエを料理して食べるのは大変な喜びです。

 また、例えば、辰巳芳子(「あなたのために いのちを支えるスープ」辰巳芳子著、文化出版局による命のスープのような手間を惜しまず、気持ちを入れた料理法による食卓は美味とともに心豊かな暖かい気持ちになります。

 檀一雄(「檀流クッキング」檀一雄著、中央公論新社の如くの国内外の市場で見つけた地産、旬の食材を自ら料理しながらの食卓を飾る美食は最高と言えます。


 一方で、外食となれば、私は文人たちのスタイルが好きです(「文人悪食」嵐山光三郎著、「文人暴食」嵐山光三郎著、いずれも新潮社)

 今だ一読されていない人は、是非ともお読みいただきたく思います。

 グルメの最高峰的楽しみ方だと思います。

 私は、外食の場合、基本的には、“父ちゃん、母ちゃん”スタイルの店の料理を食べるのが好きです。

 料理をしてもらいながら、アレヤコレヤの談議を楽しみながら、時に、私の好みを取り入れてもらった料理を食することが出来るのが喜びです。

 私にとっての興ざめは、言われたことしかしない人による料理の運び方、テーブルへの置き方や終わった皿などの食器を持っていかないような無粋な人がいるような店です。


 一方で、アメリカなどの人里離れた、広大な平原や砂漠を車で飛ばしている時の食事は、何処で食べても同じメニュー、味とコストで食べられるマクドナルドやケンタキーフライドチッキンのようなグローバル店の看板を見つけたときは安心となり、極めて都合がよく安堵の補給となります。

 まさに、グローバル店に救われることがあり、感謝です。
 江戸前寿司が、歴史的には、ファーストフードだったのですから、食文化発展としても注目です。

 そして、インスタント食品も大変便利な、取りあえずの現代生活にあっての食として有り難い食材となり、世界のインスタント食品も食文化としての存在感があります(「世界のインスタント食品」森枝卓士著、徳間文庫)。

 一方で、加工食品などは、今日、その加工技術の進歩によって、日常の使いやすい料理素材となっていますが、加工するための原材料やその処置の仕方も複雑化しているための注意も必要となっていることを忘れてはなりません(「食品の裏側」安部司著、東洋経済社)。


 《『大澤真幸THINKING「O」』第八号「正義」について論じます、左右社》での宮台真司大澤真幸との対談は臨床喫茶学にとって、極めて重要な人間社会の在り様を指摘しています。

 その議論を紹介しながらの臨床喫茶学と「淡食麁茶」を考えます。


 前回話題としました地産地消地域社会のように、先進各国は、今日的IT化、グローバル化社会にあって、共同体(中間集団)の自立回復に向けた運動が盛んになっています。

 共同体は自律的(自己決定的)で自立的な中間集団で、家族親族集団、地域集団などを指し、私的には臨床喫茶学集団を言い、グローカル(地域性ある地球的視野、「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」参照)化社会だと思います。

 生活世界として人々の間での共同性を醸し出すことは、ジャック・アタリが指摘するように我が国の国家の現状の如く国家能力、機能が低下して、大澤・宮台対談で言うような“中間集団的な共同体内の相互扶助的な包摂性に移転され、「小さな国家、大きな社会」”の生活世界となり、それぞれの共同体の自己決定的自活力にとってキーとなります。

 それ故に、臨床喫茶学のような生活・食文化が重要な意味を持つと判ります。

 我が国では生活環境の変化によって、茶の間と呼んだ居間の呼称が今日、死語となり、食スタイルは変わりました。


 今や、法化社会の一面性に縛られすぎることのない、共同体内の相互扶助的な包摂性(社会の実効的な許容度・慣用度)を高めることが求められており、「淡食麁茶」の今日的意味は大きいのです。

「淡食麁茶」も道徳判断と同様に「理性的というよりは情動的」だと思います。