「臨床喫茶学」のための「「信天翁(アホウドリ)喫茶」・・3

  「臨床喫茶学」・・お互いが平和で心豊かになり健康で文化的な実践生活法を学ぶ・・3

    「信天翁 入門 益荒男が茶の道」(山中直樹著、アマゾン、Dr.BEAUT・ソフィーリッチなどのネットで販売中)を実践する


  「淡食麁茶」の今日的意味・・1

 今回は、喫茶・茶の湯と言えば、ハイカルチャー的な利休以後の茶について知る人は多いと思いますが、ローカルチャー的な庶衆の喫茶・茶の湯については馴染みがない人は多いと思いますので概観します。

 「淡食麁茶」が如何に人や人社会のクロスカプリングを触媒してきたかが判ります。

 我が国での喫茶の歴史上の記述の始まりは平安時代嵯峨天皇の唐文化趣味からですが、一方で、市聖・空也による施茶・施粥と栄養・健康的な意味を持って、庶衆・生活弱者を対象とした喫茶も行なわれたのです。

 鎌倉時代では、非人供養に熱心な西大寺の律僧・叡尊が施茶や儲茶を行なっています。

 鎌倉時代栄西の紹介で武士たちによる薬効的な喫茶と鎌倉末期に盛んになったバサラ武士による遊興・遊芸・社交的な闘茶、茶かぶきなどが行なわれ、南北朝室町時代では、我が国の今日に繋がる喫茶・茶の湯の始まりが会所の茶として展開されたのです。

 一方では、禅林での生活規範としての茶礼や新規に取り入れられ、同時に寺社への参拝者などに、例えば東寺などの門前で振る舞われ、一服一銭の茶が行なわれ、次第に門前から町中へと広まっていきました。

 つまりは、中世の始まり・鎌倉時代から茶売りが庶衆の間で広まったのです。

 南北・室町時代になると町中では、専業の茶売りによる辻売りの煎茶の担い茶屋や茶屋が出現して、神社を離れて市中への進出です。

 腰掛茶屋のような往来の人たちの休息の場としての掛茶屋、一服一銭の水茶屋や酒や色までサービスする色茶屋、料理茶屋まで出現しました。

 表向きは茶屋での酒や色の導入です。

 そして、仲間内が集まる淋汗の茶、麁茶を用いた雲脚の茶や下下(ゲゲ)の茶などと呼ばれる庶民的で遊興・茶遊び的な茶が普及しました。

 喫茶法は、抹茶であったり、抽出する煎茶様式とがあったのです。

 すでに紹介の如くの狂雲集で喫茶の淡食麁茶性や風流の茶屋に出入りを詠っていた一休宗純のサロンに参加していた村田珠光は、東山文化の立役者・足利義政銀閣寺で知られる東山山荘・東求堂の四畳半の付書院の始まりたる同仁斉に出入りしてハイカルチャーな会所の喫茶・茶の湯を知った上で、庶衆の間で普及していたロカルチャー的な茶碗などの喫茶道具の導入を図って「冷え枯れる」に始まるワビ茶の創始者となったのです。

 続いた武野紹鷗は和歌の掛軸や茶杓などと竹道具の工夫などをして本格的な和の文化を取り入れたワビ・サビの喫茶・茶の湯を発展させました。

 ワビ・サビの茶の完成者的役割を果たした千利休は、自らが今日的に言えば前衛的なデザイナーとなって創意工夫をした茶室や茶碗などの茶道具を創造した世界を積極的に進たのです。

 喫茶・茶の湯の食にあっても、一汁三菜の懐を暖めるだけのような麁食の懐石を大切としたのです。

 利休は喫茶・茶の湯の美意識・「淡是唯美」を飲食にあっても「淡食麁茶」の心を忘れなかったのです。

 しかし、この美意識は利休の死後は「十年を過ぎず、茶の道は廃るべし」と予言していたのですが、「淡食麁茶」の心は「淡是唯美」とともに今日に至るまで廃り続けています。