「臨床喫茶学」のための「信天翁(アホウドリ)喫茶」・・2

 「臨床喫茶学」・・お互いが平和で心豊かになり健康で文化的な実践生活法を学ぶ・・2

    「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(山中直樹著、アマゾン、Dr.BEAUT・ソフィーリッチなどでのネット販売中)を実践する


 喫茶の元祖と言われる中国唐代の陸羽が著した「茶経」(760年頃)以来、既に、喫茶が単に喉の渇きを癒すだけの飲み物ではなく、頭痛、疲労解消、鬱陶しい時などに薬用効果(身体的効用)のみならず、自己修養、志気の向上、情緒の安定などと精行倹徳としての有益性、つまり、精神(心霊)的、心理的、社会的効用性を説いています(「茶聖陸羽」成田重行著)。

 今回からは、喫茶・茶の湯が内包する医薬的・身体的健康とのかかわりを話題とします。

 平安時代には僧・永忠が唐文化趣味の嵯峨天皇に茶を煎じて捧げた(815年)との「日本後記」から始まりますが、菅原道真らによる喫茶では煩悶、ストレス解消としての飲料として飲まれています。

 菅原道真の歌に次のように歌われています。

 「茗茶の香湯をもって、酒を飲むを免ず」、「煩懣、胸腸に結る、起きて茶一盞を飲む、飲み了りて消磨せず」。

 しかし、既に紹介しましたように平安中期の南無阿弥陀仏の口称念仏の布教者で皮聖と呼ばれて鹿皮の衣を着け、鹿角の杖を手に市聖・空也(903〜972年)は疫病の流行に際し衆庶の救済としての施茶、施粥を行なっています。

 仏門、庶民では飲茶の薬効性を期待しての喫茶が始まっていたのです。

 施茶、儲茶は薬用プラス栄養的意味を持っていたのです。

 当時は、陸羽による団茶を輸入して用いる喫茶が大部分で、抽出した茶を飲んでいたのですが、滋賀県大津市や愛知県の三河などの茶園で栽培されていた国産茶もあったようです。

 平安期の喫茶は、一時的には歴史の表面から消えましたが、貴族趣味の喫茶とは別に、国産茶を用いた空也らによる生活弱者への栄養・薬用的な意味も持つ施茶は施粥とともに衆庶の間で続いていた可能性は強いと思っています。

 次に、喫茶が本格的に歴史上に現れて身体的、精神的、修業的、社交的意味を持って発展するのは、鎌倉期の禅僧・栄西による抹茶法の伝来からです。

 1214年に栄西が宋から持ち帰って伝えた抹茶法は、鎌倉三代将軍の源実朝が二日酔いの頭痛に悩んでいた時に、“茶は末代養生の仙薬なり、人倫延歳の妙薬なり”とある「喫茶養生記」とともに献じたことは良く知られたことです。

 薬効的には、茶葉に含まれるカフェインの鎮痛作用、覚醒作用、利尿作用による効果だったと言えます。

 実朝への効用で、抹茶法は各地に広まることになり、今日の西大寺大茶盛で知られる叡尊は貴賎男女を越えて生活弱者への慈善事業的な栄養補給、薬用的な儲茶を近江、岐阜、尾張駿河などと各地で行なっています。

 一方で、禅林では生活規範や茶礼として禅と茶との結びつきも始まって、茶の薬用としての効用から、修行、社交性としての文化的発展も始まりました。

 門前では、門前の茶屋が始まって僧衆に振舞われるようになり、次第に一服一銭の茶と言われるような茶屋として町中へと喫茶が広まって行ったのです。

 喉を癒す飲料や茶屋での社交的な喫茶と庶民への普及だとい得ます。

 次回は、中世の文化サロン・酬恩庵の主たる一休宗純による狂雲集にある、臨床喫茶学がキーワードとする「淡食麁茶」の今日的な栄養学的な意味を話題とします。