信天翁喫茶記

  心のイケメンある自活力・・迫る単身社会・無縁社会と自活力・・ゆるやかにつながる心の絆・連帯がキー・・・18

    ・・不安の時代の自活力を育む・・

     「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(山中直樹著、アマゾン、Dr.BEAUT・ソフィーリッチなどでネット販売中)

 応仁文明の乱・下克上の時代は、不安の時代で、一休宗純は木津川のほとりにある、今日の京田辺の薪にある一休寺・酬恩庵から京都の町の明かりを垣間見ながら動乱を避けて集まった文化人たちとサロン的な狂雲な生活をしていたのです。

 八十七歳の生涯の晩年を酬恩庵で盲目の森侍者と床をともにして喜び過し、実子に岐翁紹禎がいたのです。

 飲酒、肉食、女犯、男色を犯し、人間的な内面を赤心・直心に体現しながら見つめたのだと思います。

 杖の頭にドクロを付けて、人は一皮向けば皆同じと橋の下で乞食や難民たちと過し、自らも貧しい生活をして民衆の目線となり親しまれていたのです。

 「狂雲集」に人間らしい自分の赤裸々な思いを真面目に詠じています。

 「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」には、「一休和尚大全上下」(河出書房新社)から茶や喫茶についての言及を取り上げて紹介していますが、喫茶が栄養性、遊狂・遊興性、修行性を持つことが判ります。

 例えば、次のようです。

 ・ 「百味の飲食、一楪の裏、 淡飯麁茶、正伝に属す」(あらゆる味の飲み物も、一碗の中にある粥と粗末な茶は正しい仏道のものである)。

 ・ 「飯縁、食籍、聊かの茶湯、 竹は菊籬を縛し、梅は墻を補ふ。 人間の世諦、尽く餓死、地獄、遠離して、安楽長し」(人が一生の間に摂る食事の量は決まっているのだから、少々の茶と湯で過せばよい、 竹が菊の籠を縛り、梅が垣根を補うように、食事は人間の生涯の補助なのだ。 世俗ではそれでは餓死してしまうと思うが、疑獄から遠く離れて、長く安らかな楽しみが得られるのだ)

 ・ 「夜雨、燈前、渾て即ち忘れず、 風流の茶店、旧時の吟」(夜の雨音を聞きながら、燈火の前に坐っていると 目の前のことは、すべてを忘れる。 俺は、風流な話を残した茶店を怒って、詩を吟じる)。

 
 村田珠光は、一休宗純らとの語らいに、漢文化的価値観から多様な価値観に目覚めて、和文化の価値観にも注目して和漢の境を紛らかしたのです。

 万葉集以来の「和歌の心」たる「冷え枯れる心」の大切さ、鎮めの文化たるワビの美意識を喫茶に取り込んだのです。

 淡飯麁茶、美是唯淡のワビの心は、萌え出づる心を秘めるサビの心を持って、ワビ・サビの麁相の茶の湯・喫茶の心として日常茶飯の生活文化となって発展したのです。

 ワビ・サビの茶の湯文化は、本来的には富者のための文化ではないと判ります。