信天翁喫茶記

心のイケメンある自活力・・迫る単身社会・無縁社会と自活力・・ゆるやかにつながる心の絆・連帯がキー・・・17

   ・・不安の時代の自活力を育む・・

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 足利幕府を開いた足利尊氏に続いた喫茶・茶の湯にあっての注目の将軍は、南北朝を統一、寝殿造りの花の御所を建造して室町幕府と言われるようになった三代将軍・義満、書院造りの建築様式の始まりとなった会所の茶を発展させた六代将軍・義教、そして、応仁・文明の乱を誘発させた八代将軍・義政です。

 三代将軍・義満が明との勘合貿易により蒐集し始めた室町幕府に伝わる美術品は、今日に東山名物として分類整理して伝来しています。

 義政の東山文化ではハイカルチャーとしての東山名物と会所での書院造に対して、銀閣寺の東求堂内に同仁斎と名づけた四畳半の付書院を造りました。

 付書院は、床の間の脇に板張りの縁側に張り出した明かり障子を立て、机を造り付けにした工夫をして、四畳半の茶室の始まりとなったとも言えるのです。

 義政は室町幕府の公家的文化、武家的文化と禅的文化とを融合したレトロモダンな文化を発展させました。


 ワビ茶の元祖と伝わる村田珠光は東求堂にあって、義政やその同朋衆たちと名物の勉強、茶事や芸能に携わることから始まったとも伝えられます。

 門前での一服一銭の喫茶や茶屋は町中に広まて行ったのです。

 一方で、鎌倉後期から南北朝時代では武士や豪族たちの間で、淋汗(林間)茶の湯と呼ばれる汗を流した風呂上りに娯楽・遊興・社交性のある一味同心喫茶が楽しまれるようになりました。

 応仁文明の乱・下克上の不安の時代に奈良の豪族で淋汗茶の湯を楽しんでいた古市播磨村田珠光が「心の文」と言われる歴史的な手紙を送ったのですが、和歌の心たる「冷え枯れる」心の大切さを説いたのですが、その心が「ワビ茶」の原点なのです。

 草庵のワビ茶への発展は、村田珠光が今日的に言えば一休宗純を中心とする酬恩庵での文化サロンで、能の金春禅竹の孫・禅鳳、連歌師などとの交流によって、文化的多様な価値観に目覚めたことから始まったのだと思います。
                  (山中直樹著「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」)