信天翁喫茶記

  心のイケメンを育む・・各々一ニの才能なきはなし・・

  ・・不安の時代の自活力を育む・・

    「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(http://www.sophyrich.com/)

既に取り上げましたが(NHKテレビ「ギフト〜E名言の世界」ロジャー・パルバース)、吉田松陰による生き方の名言・提言は、日常茶飯・常住坐臥の不安の時代の心すべきモチベーション(刺激、動機)となります。

 「人賢愚ありと雖も、各々一ニの才能なきはなし、漕合して大成する時は、必ず全備する所あらん。 All people,whether clever or not,posses a strong point or two. By combining these,they can accomplish great things」とあります。

 明治以後の日本の教育は、伝統的に外国、取り分け、西欧からの知識を学ぶ体質が続いています。

 それ故に、記憶優先の学習を従順にこなすタイプの人たちが優秀と画一的な評価がなされて、ランク付けされた大学への教育課程を進むを評価する傾向があります。

 人それぞれに適った才能、能力があり、職業に貴賎はないとの理解が乏しいことを示しています。


 一方で画一性が強いランク付けをして生徒や親に強い進学校を“強制指導”をするにもかかわらず、例えば、通知表でのランク付けはあっても、徒競走の順位をつけないことが正当化・美化されています。

 学校の教育が、人それぞれの才能・能力を見出すことにあれば,徒競走での順位付けは、運動の基礎能力の判定に役立つとなり、他の学習と同様の意味、価値を持つことになります。

 色んな才能を持った人たちがおり、その才能を伸ばそうとするより、自分たちの一面的な価値観を押し付けて、子供たちの能力を曲げてしまっている教育関係者のみならず国民的な体質が続いているのです。

 我が国では、政治家的才能や能力の有無を問うことなく、二世、三世の人たちが首相に成りやすい社会体質にありますが、あまり満足な首相であったとは言い難いのも、その不幸の犠牲者と言えます。


 その原因、誘引は、今尚続く、教育にあっての人それぞれの才能を見出すことに重きが無いことにあり、学校での学習成績の判定は、人の才能を発見するための一つのパラメーターに過ぎないとの理解を進め無ければなりません。

 今や、国家は人それぞれの才能を見つけて、湊合して成し遂げなければ衰亡する不安の時代なのです。

 目先の既得権や優しさを説く人は評価されない人たちによる国民・国家にする教育が急がれています。

 つまりは、心のイケメンある自活力ある人の育成にあるのです。