信天翁喫茶記

信天翁喫茶:鎮めの自活力・・「裁判員制度」・大澤真幸THINKING3号(左右社)から

    「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(http://www.sophyrich.com/)

・・不安の時代の自活力を育む・・

 自活力は自分が判断して発言したり書いたりとオープンにした上で、社会的な行動として具現化することへ参加・行動することによって育成されると思います。

 そうした社会的行いとして「裁判員制度」に参加して人を裁くことに関与することは意味があります。

 「大澤真幸THINKING」3号では「民主革命としての裁判員制度」をテーマとして司法制度改革推進本部「裁判員制度・刑事検討会」委員として裁判員制度導入に努力された四宮啓と大澤真幸との対談が行なわれています。

 裁判は国家権力による人を裁く制度で、戦争と同様に人の命を人為的に奪うことができます。

 裁判は伝統的に今日至るまでも権力が、お上意識、特権意識をもって対等でない人間関係を強要してきた体質があります。

 前回の河野義行は、冤罪は裁判官が間違えたのだと指摘しています。

 推定無罪の被疑者に対して、検察側は罪状を提示し、弁護側は弁護をとそれぞれが主張した上で、判断・裁定を下すのは裁判官側だからです。

 河野義行自身が直面した松本サリン事件や最近の菅原利和の足利事件での冤罪について、職務上でいえば一番問題の間違った裁定をした裁判官は謝っていないことからも、国は誤らないとのお上意識が続いていることが判ります。
 
 我が国も権力が都合の悪い人物を恣意的に殺害するために、今日話題となる寃罪、ぬれぎぬの歴史があります。


 しかし、裁判制度を如何にしようと、いくら姿勢を正しても、人が人を裁くことによる冤罪を100%なくすのは不可能と言えます。

 それ故に、取り返しの効かない、人の命を奪う死刑制度を廃して終身刑を最高刑にすべきだとの根拠があるのです。

 
 そうして背景に、今回、我が国では「裁判員制度」が発足して、一般の国民が参加する裁判員となって死刑が無期という刑罰を下される可能性のある刑事裁判に参加することになったのです。

 四宮啓は、この改革は国民主権民主化の主題となるとしています。

 大澤真幸は「静かなる革命」としています。

 国民の多くが裁判員裁判に参加することによって、「社会と言うのはお上が作っているのではなくて、一人ひとりが作っている」のだと「一人ひとりが声を上げていけば、この社会がよくなっているのだ」との「民主主義学校」としての機能を果たすとの期待があるのです(四宮啓)。

 我が国では、権力・政権の変転にともなっての前権力・政権についてご都合的・恣意的な物語は作られますが正史として残す伝統がないためにきちんとした解析・反省が為されない伝統があります。

 その伝統がアジヤ・太平洋戦争の敗戦についても正史的判定が為されていません。

 戦後政治史も55年体制が続いていたために、「お国のやることには間違いがない」と誤りを認めない国家体制でした。

 つまり、原因の究明に伴なう責任回避体質にあります。

 しかし、今回の政権交代が起こったために、「前の政権が間違えていた」(大澤真幸)と言うことができることになり、今までなら隠してこられた(例えば、核の密約)など、情報の開示が為されるようになった意味は大きいのです。


 そうした時代の変化に、国民は従来どうりの“お上のなさることは”ではすまされなくなってきたのです。

 「裁判員制度」がスタートして、国民一人一人が、国民主権の責任ある民主主義を自覚しなければならない「静かなる革命」が誘発されたのです。


 信天翁喫茶が求める、鎮めの自活力を育まなければならないのです。