信天翁喫茶記

 
  信天翁喫茶:鎮めの自活力・・「人を殺したくないと思った」・・鶴見俊輔著「思い出袋」より

     「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(http://www.sophyrich.com/)

・・不安の時代の自活力を育む・・

  今回も、鶴見俊輔「思い出袋」からとします。

 鶴見俊輔ハーバード大学の学生時代に日米開戦に直面しました。

 日本であれ、アメリカであれ、いずれの国にあっても、国家とその権力に対してとその国の人たち一人一人の人間とはハッキリと区別をしています。

 鶴見俊輔アメリカでの学生であった日米開戦時、アメリカ政府・権力は敵国民であるとのことで日本人戦時捕虜収容所に抑留されました。

 アメリカ政府の役人にアメリカに残るか、日本に帰るかを聞かれて、その場で、既に日本語が怪しくなっているほどだったのですが日本に帰ると返事をしています。
  しかし、自分は既に日本にいる時から日本国民は日本政府の命令に従わなければならないという考え方はしていなかったにもかかわらずです。


 鶴見俊輔は、学齢に達する前の五歳に「人は殺したくない」と思ったのです。

 その理由を鶴見俊輔は以下の如くに記しています。

 『張作霖爆殺の号外が写真入りで家に投げ込まれたころ、日本人が外に出かけてそこの人を殺すことへの恐怖は私についてまわった。学校に行くようになっても、この事件が私から離れることはなかった。』

 そして、戦争をしないと誓う憲法ができて嬉しかったのですが、また、イラクへの派兵問題などの正当化を思考する動きを悲しんでいます。

 再び、国家権力による人殺しの正当化を阻止しなければなりません。

 最近の日本の体質を次のように憂慮しています。

 私も、イマダに残る龍馬伝での「攘夷、攘夷」と異なる意見を排除、抹殺しようとの体質、今日的に言えば、国家や会社組織等でのヒラメ体質が悲しいのです。

 つまり、「鎮めの自活力」を持った一人一人のイジメも含む非暴力的言動体質が乏しいことです。

 『何故、日本では「国家のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためと同じであると、どうして言えるのか。国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にはいくつもの小社会があり、それらの小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。』

 それ故に、非暴力的活動のべ平連活動を行ったのです。

 その心は、『人を殺したくないという感情は、「良心的兵役拒否」という法律用語より前にある。』からです。

 
 まさに信天翁喫茶が求める「鎮めの自活力」の心にあります。

 再び、『人を殺したくない』の心が踏みにじられないように一人一人の人たちに鎮めの自活力を育んでもらいたいと切望です。