信天翁喫茶記
信天翁喫茶:鎮めの自活力・・「理屈をつけて殺しあわないほうがいい」
「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(http://www.sophyrich.com/)
・・不安の時代の自活力を育む・・
「理屈をつけて殺しあわないほうがいい」と記しているのは、信天翁喫茶での芸術的思考のベースとしている「限界芸術論」の著者・鶴見俊輔による近著『思い出袋』です。
信天翁喫茶では、レトロモダンの限界芸術(marginal art)として、常に未来に向かってのレトロとモダンとの鎮めの自活的ある創造的発展を心しています。
鶴見俊輔は、ジョン万次郎の14歳より一つ年上の英語もしゃべれない15歳でアメリカに渡り20歳まで滞在して、ハーバード大学の哲学科を卒業しています。
19歳の時、日米開戦によって敵国人として日本人戦時捕虜収容所に拘束されていたにもかかわらずハーバードを卒業しています。
日本が負けると思っていたにもかかわらず、日米交換船に乗って、自らの意思で日本に帰っています。
同じハーバード卒の後輩・小田実とともに、非暴力抵抗運動としてべ平連の支援者・運動者としても知られています。
鶴見俊輔はアメリカの学生時代の夏休み時に下宿させてもらった家族から、暮らしを切り詰めていても「あなたは家族のひとり」と手狭なアパートでお茶会を開いて集うもてなしを受けるような、人間らしい品位を保つアメリカ人たちを知っています。
それにもかかわらず、87歳の今日至るまで、友人の誘いにもかかわらず、カナダまで入っても、アメリカには入国していません。
理由は如何な理由があれ国家権力の言うままに人を殺さなければならないことに抵抗があるからです。
20歳での帰国後、召集されて東南アジヤに海軍のドイツ語、英語の翻訳者として働いています。
しかし、鶴見俊輔が帰国したのは日本人として日本国家・政府の考えを良しとして忠誠を感じているわけではありません。
日本の国には愛着を感じても、日本の国家・権力とははっきりと区別があるのです。
アメリカに対しても同様の意思が働いているのだと思います。
必要不可欠ではなかった原爆を落としたアメリカ国家・権力は許しがたいのです。
鶴見俊輔が考えるように、国家への不信と国への愛着とは明確な区別をしています。
今日でも、よく混同されることは、国家(national)と国(patriot)とは別ものなのです。
国家は時の権力・政府が支配する体制を意味し、国は、言ってみれば、国敗れて山河ありであり、国家権力とは区別して考えなければなりません。
例えば、信長、秀吉、家康と時の権力は、それぞれの国家権力として、ご都合を人々に強います。
それ故に、鶴見俊輔は、国家権力には反対することや意に添わないとの意思はあっても、日本の国には愛着があるのです。
それ故に、負けると判っていても日本の国に帰ったのですが、愚かな戦争をはじめるような時々の国家・権力には愛着がないのは、アメリカ同様にないのです。
つまり、反国家・権力と反国との違いにコンガラないことです。
べ平連の非暴力抵抗運動は、国家とは区別して、愛すべき日本の国やアメリカ人たちには愛着と支援を行なったのです。
まさに、信天翁喫茶に適う鎮めの自活力を示しているのです。
国家権力や組織・団体の意に添わないからと安易に、例えば、日本や会社組織のことを考えないのかと煽ることは愚かな勘違いなのです。
NHK大河ドラマ・龍馬伝での“攘夷、攘夷”と意に添わない人を暗殺したり排除する愚かさです。
つまりは、「理屈をつけて殺しあわないほうがいい」のです。
アレヤコレヤの理屈をつけて、我が国の人間らしい品位ある現行憲法を改正して、紛争に暴力を用いることを正当化しようとの煽動には乗らないのが、鎮めの自活力ある人なのです。