信天翁喫茶記

信天翁喫茶的ワビ・サビの自活力ある生き方・・自分が選ぶ・決める・・

    「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(http://www.sophyrich.com/)

・・不安の時代の自活力を育む・・

 老いも若きも、自分のことを自分で決められなくて悩んでいる人たちは少なくありません。

 人によっては無為に過したり引きこもったり、タダ自分の欲望のままに異性を求めたりしています。

 私は、近年は親や学校を含む社会が幼児期からの過剰な保護によって自分自身が選び・選択して決めるような自主性を重んずる体質にないからだと思います。

 また、周りのことばかり気にして、自分の意思をはっきりさせないで生きてきた人たちが多いのです。

 言ってみれば、年齢にかかわらず、人は自分自身が責任ある選び・選択をすることが相手を尊重するとの社会的な体質となっていないのだと言えます。

 それよりも、他の人たちが、“皆が言ったり行なう”事に合わせることに重きを置いています。

 それ故に、“皆が言っているから”とか“やっているから”と自分の希望や意思表示をしない傾向にあります。

 そして、時として“本当はこうしたいんだけど”と選択した言動に責任を持とうとはしない人もいます。

 既に取り上げましたように、江戸時代以後の今日に続く権力側の都合が良いような体質を“和を持って尊しなす”と集団主義を美徳として個人的意思を抑制してきました。

 しかし、その“和”が時として、理不尽を押し付けるために都合よく利用されています。

 茶の湯であれば、伝統と称して、お決まりのマニュアル的言動に誘導されて、形ばかり、形骸化した儀式的一面を強くしています。

 ファーストフードで物を買う時のロボットと会話するような気分にさせられます。

 道具自慢や、時に、偽物道具を“素晴らしいお道具で”と判っていっているのか、いないのか誉めそやすような空虚なやりとりをしていることも少なくないのです。

 本来の人と人との心の絆・連帯としてのコミュニケーシャンや生活文化としての大切さが優先されていません。


 最近、私が医師として直面する患者には自分自身が何をやって良いのかと悩んでいる人が少なくないのです。

 次のような例があります。

 ・大学生・・母親が幼児から何もかも用意したり、与えたりしてエスカレーターに乗せるようにして育てたのです。

  大学に入学してからは親が目・手を離したら、勉強も含めて何をやりたいか、やって良いのか判らずと女性ばかりを本能のままに追いかけている若者。

 ・子供が遠方の大学に入学したり、就職をしたために手元を離れために子離れできずに悩む女性。

  今までのような世話をやいたりすることがなくなり、気が抜けたように生甲斐をなくし、他に気持ちを満たすようなやりたいことを見出せずに悩む母親。

 ・家庭では子育て、自営的会社や店での仕事を仕切るほどに頑張ってきたが、子供たち等が手伝うようになって時間的余裕が出来たにもかかわらず、心を満たすようなことが見つからなくて悩んだり、落ち込む人。

 ・高齢者で生甲斐を見つけられずに一欲喪失してしまう人。 

 取りあえず、毎日こなしたり、やることに追い回されていることが自分の存在感や生甲斐とした生活は、知らず知らずに自活力を失うことになります。 

 日頃から、自分の意思で選んだり決める自活力を示した生活に心がけなければ、今日のように目まぐるしく社会が変転する時代では、自分の生きている存在感を失いかねないのです。