信天翁喫茶記

  「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(山中直樹著、http://www.sophyrich.com/);:今なぜに!!
    ・・不安の時代の生き方を学ぶ・・

 喫茶・茶の湯は日常茶飯の生活道場

  前回、我が国の文化は伝統的にミニチュア化した文化として発展してきたことを述べました。

 必要最小限を求めた単純化志向で、西欧的な「煽る文化」に対して「鎮めの文化」による繊細さを求めてきました。

 そして、その単純化と縮小化に無限の心の広がりを思考・志向したのです。

 ワビ・サビの茶の湯は、必要にして不可欠なやつした茶室と露地空間の中で、人をもてなしながら一汁三菜の粗食と一碗の茶を心を込めて振舞うのです。

 そこでの振舞いの基本と美意識となるのは、もてなす側と客が、東洋的な陰陽カネワリ(曲天割)の美の心です。
 西欧的な黄金分割の美意識とは異なります。

 カネワリは茶の湯の点前が美的用の配置と体に優しい理に適った所作・振る舞いとなっているところが素晴らしいのです。

 日常生活での自然との共鳴とともに心休まる美しい生活環境での身体への無理のない立ち居振る舞いモデルとなります。

 もてなす側ともてなされる側となる亭主と客はお互いの心温まる意思疎通・コミュニケーションのために自利利他円満・自他楽となる立ち居振る舞いと心配りと会話、つまり、お互いに相手の立場を理解しながらの関係の基本を学ぶことになります。

 枯山水の庭が、石と苔のような最小限によって、無限の宇宙的空間を感じて人の生き方を考えさせるように、茶室と露地は最小限の空間で衣食住と人との関係を学ぶ生活道場となっていると判ります。

 喫茶・茶の湯文化は、決して否俗文化ではないのです。

 しかし、非俗の文化なのです。

 市中の山居とポルトガルの宣教師・ロドリーゲスが表現したように、西行のように人里はなれたところに草庵を設けて生活をしたのではなく、武野紹鷗や千利休のように市中で皮屋や魚屋を営みながらの日常生活環境に草庵の庵と露地空間を築いて、生き方の在り様を求めた生活道場だったのです。

 ワビ・サビの喫茶・茶の湯文化は、決して、社会から遊離した形式的な文化ではなく、常に社会とその変化に動的にかかわりながら如何様に生きるかの生活文化であり、常に、閉鎖的で形骸化した様式に拘ることなく、生き方に必要不可欠の「自活力」が求められるのです。