信天翁喫茶記

 「鎮め文化」は「自活力育成文化」・1

   不安の時代の生活文化・・7・・「信天翁喫茶 入門 益荒男が茶の道」(山中直樹著、http://www.sophyrich.com/)


 「鎮めの文化」は、必要不可欠を求め、それぞれの人が求める「自活力」と「自活力育成のための下支え社会」を構築するためのキーとなります。

 人の生き方として、我が国の「鎮めの文化」は、「永遠」、「移ろい」、「貧困」に眼差しを注いできました。

  万葉集以来の和歌に詠まれていますように、喜び、悲哀、限りある命のはかなさなどの人間的な心情や四季の「移ろい」に対して、愛や人間関係の絆、変わらぬ自然の摂理などの「永遠」を求める心を大切にしています。

 そして、山上憶良は、お役人でありながら、既に貧しい人たちの生活を心配して思いを馳せ、「貧困問答集」を歌い上げています。

 つまり、我が国の本格的な歴史資料以来、「移ろい」、「永遠」に加えて、「貧困」が課題となっているのです。


 我が国への喫茶文化の伝来は、平安時代嵯峨天皇による漢文化趣味として、まずは発展したのですが、学聖・菅原道真が苦悩の和らぎを求めて安らぎ飲料としての喫茶を「煩懣、胸腸に結る、起きて茶一盞を飲む、飲み了りて消磨せず」、「茗葉の香湯を持って酒を飲むを免ず」などの詩を詠んでいます。

 そして、南無阿弥陀仏を念ずる口称念仏布教の元祖たる市聖・空也は喫茶が持つ健康・栄養的な飲料として貴賎を越えた人々に施茶、施粥を行なっているのです。

 室町時代になると創造的日本文化を発展させたのは、芸能者で申楽・能の世阿弥枯山水の石組みの作庭家・善阿称で、いずれも河原者でした。
 世阿弥は、一瞬の優艶な美の「移ろい」は『秘すれば花』と「永遠」の美を求めて、「離見の見」の大切さを説いています」

 つまり、宮本武蔵的には「観見」と指摘するように、日本画が伝統とする「俯瞰」の思考が「移ろい」、「永遠」にとってキーとなると判ります。


 東山文化時代の善阿称による「枯山水の石組み」は、不安な時代の応仁・文明の動乱の不安の時代に、最小限、必要不可欠で変わらぬ移りゆく時間を越えた永遠性、ソフィー性ある美の追求にあったと言えます。

 戦国時代から信長の時代となると、皮屋であり、ワビ・サビの茶祖・武野紹鷗によって、山村閑漂う窶した草庵の茶室が建造されるようになり、茶室の周りに露地の原形となる庭園空間造営が始まったのです。
 続いた魚屋で前衛芸術家・千利休によって現在最古と言われる必要最小限を求めて二畳と床の間の極小空間の草庵茶室・待庵が創造されました。

 結界となる露地からの草庵は、枯山水の庭の「永遠性」に対して、最小限の窶した山村閑と四季の「移ろい」を大切としています。

 「窶し」は鎮めの思考があってこその世界であり、自然に対してとともに人としての尊厳を蝕む「貧困」に対する優しい眼差しの心がなくてはなりません。

 「鎮めの文化」が自然と人との優しい共鳴を呼ぶのです。

 申楽・能や喫茶文化、枯山水の石組みや草庵の茶室空間は、皮聖と言われる空也を始めとして公界(クカイ)の自由な精神者や河原者などの平和集団による活躍があったからなのです。

 必要不可欠を求める「鎮めの文化」は人としての尊厳ある「自活力」と「自活力育成」を助ける社会や自然への平和な安らぎある眼差しで自利利他円満な文化なのです。