オタピー茶の湯; 日常茶飯の「こころ」・・40
オタピー茶の湯は日本のグローカル文化;ハイカルチャー、ポップ、キッチュ、サブカルチャーの界を紛らかす・・40
『喫茶・茶の湯』、『煩悩是道場』、『価値観による選択の自由』・・5・・平野啓一郎・3
今回も、平野啓一郎著『ディアローグ』(講談社)からの話題とします。
作家の古井由吉、島田雅彦と平野啓一郎の三人による対談が取り上げられています(2000年、『新潮』に初出)、タイトルが『三島由紀夫不在の三十年』からです。
平野啓一郎が発言している行に次のようにあります。
「死に絶大な信頼が置かれる」、「一人一人の生が絶対的一回的なものとして描かれてゆく」三島作品の『豊饒の海』についてからの言及です。
「三島は、死という否定的なものから立ち返ってくる形でしか、主体を肯定できない時代の人間ですね。」
「人生が絶対的につまりは一回的に確かにあるということは、死の絶対性を通じてしか保証できない。」
三島自身は、「結局死を射程内において絶対的な生を生きようとしている」とあります。
「それを不可能にしてしまうのが仏教の空という思想」との指摘がなされています。
三島由紀夫は、結局、自らの意志で、1970年・11月25日に割腹死をとげています。
現代は、三島の時代より、「死や生の絶対性は曖昧で相対的になり、絶対的生だと思ってそれぞれに生きた人間たちが、最終的に生きたかどうか分からなくなってくる」時代と言えます。
三島由紀夫といえば、古典主義、ロマン主義に基づくハイカルチャーと澁澤龍彦、横尾忠則、三輪明宏、池田満寿夫などと一緒に、ポップ、キッチュ、サブカルチャーの活動を行っています。
日本のグローカル文化的視点からのハイカルチャー、ポップ、キッチュ、サブカルチャーの界を紛らかさんとしていたと思います。
ここで取り上げただけからでは、理解するためには不充分だと思いますので、平野本をお読み下さい。
ここで、「死は絶対的一回的」であるのに対して、私は「生は、時間に対して、絶対的一回的」だと考えるのです。
私は、日本文化のグローカルな独自性ある特徴は、赤瀬川原平著『芸術原論』(岩波書店)で主張している、『一回性の緊張と輝き』にあると思っています。
その「こころ」は、『喫茶・茶の湯』にあっての『主客同坐による直心の会話』に昇華されていると考えています。
幕末の大老として、西欧による侵略からの救国のために勅命を俟たずに開国に踏み切った井伊直弼(井伊宗観)には、安政の大獄・桜田門外で死す直前まで推敲を加えていた茶の湯の名著『茶湯一会集』があります。
そこで、有名な「一期一会」と「独坐観念」の言葉を発信しています。
「一期一会」は、戦国時代の山上宗二が、「山上宗二記」で述べている「一座建立」の言葉より磨きをかけた、美しい響きや意義・思想を感じさせています。
「一期一会」は、「生は、時間に対して、絶対的一回的」な『一回性の緊張と輝き』を表現するものだと思います。
そこに、『喫茶・茶の湯』の「こころ」の人間らしい安らぎがあるのです。
「人の生は、日常茶飯に、時間に対して、絶対的一回性」なのです。
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