オタピー茶の湯; 日常茶飯の「こころ」・・39

 オタピー茶の湯は日本のグローカル文化;ハイカルチャー、ポップ、キッチュサブカルチャーの界を紛らかす・・39


 『喫茶・茶の湯』、『煩悩是道場』、『価値観による選択の自由』・・4・・平野啓一郎・2


 前回に続けて、平野啓一郎著『ディアローグ』(講談社)から取り上げます。

 作家・日野啓三(2002年死去)との対談で、「聖なるものを求めて」(1999年、『文学界』に初出)にあって、「言葉の普遍性」について、語り合っています。

 日本は、この二千年に及び、島国で、鎖国状態にあったために、異人種との日常茶飯的な会話がない特殊環境だったのです。

 それ故に、今日にあっても、会話にあって、以心伝心で通じていると思い込んで、“言わずものが”の会話を良しとして、“ワザワザ言うことが、はしたない”と思われてしまいます

 逆に、内容によっては、言うと都合の悪いことを“オモンバカリ”で理解せよと、ハッキリさせようとすれば、無粋なやつと言われてしまうことは、私の経験でも少なくありません

 「けれども、もう許されないです。 日本人が生活水準を徳川時代レベルにまで下げるつもりならいいですが、今の生活水準は外と関係しなければ保てないし、そうなると以心伝心では通じないから、変わっていかざるを得ない。」

 「私たちの無意識を含めた意識全体、知覚の質も不気味なほど多層化しつつある」とあり、小説や会話にあって「ある種の普遍性」が求められ、二回の元寇にあって、神風が吹いて、閉鎖性が保たれたようには、今や、都合良くは、済まされなくなっているとの指摘がなされています

 茶の湯にあっては、『主客同坐』の上での『直心』の会話が、本来、求められていました

 しかしながら、元禄時代に始まった家元制度による様式化した茶道が主流になって以来、プロセスのステップを踏むための手順が重んじられ、明治以後になると、学校茶道として、行儀作法としての意味が重んじられるようになった、会話の形式化が進むことになりました。

 更に、文化教室的な手習い事となって、マスマス、会話の形骸化は進んでしまったと言えます。

 つまり、哲学者・谷川徹三著の『日本人のこころ』(岩波書店)にありますように、“おもてに表れた”ものの“裏にある”“普遍性に通ずる”「こころ」が忘れられてしまいました

 加えて、現代は、以心伝心どころか、オモンバカリ的会話が、「不気味なほどの多様化」を以って蔓延ているのみならず、世代間格差を持った、「多層的な現実になりつつある」のです。

 そして、外国人との接触は増し、ITを用いたコミュニケーションが、日常茶飯化して、以心伝心どころか、閉鎖的、独善的会話が通用し難くなっています。

 そうした現代にあって、オタピー茶の湯・喫茶では、『主客同坐』の『面と向かって語り合う』『直心』の双方向性をもった会話を何よりも大切な必要条件としています。

 (楽天、ミクシイでは、『低コレステロール血症を改善する元祖・・120・・『脳力』は、『素肌美力』、『抗加齢力』に通ず・・29・・イキイキ健康ライフの選択・・4・・『素肌美力』は、『こころ』から・2』を話題とします)

 (Dr.BEAUT・ソフィーリッチでは、『メタボリックシンドロームは、酸化ストレス・慢性炎症・・15・・「酸化ストレス・慢性炎症」が動脈硬化性疾患の血管病変の基・・15・・脂肪細胞・組織と酸化ストレス・慢性炎症・・9』を話題とします)

 (Googleでは、『オタピーラプソディー;『脳力』は、『健康力』を・・『健康力』の常識は変わる;『メタボの罠ー「病人」にされる健康な人々』(大櫛陽一著、角川SSC新書〉』を話題とします)

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