オタピー茶の湯は、日常茶飯の「こころ」・・36
オタピー茶の湯は日本のグローカル文化; ハイカルチャー、ポップ、キッチュ、サブカルチャーの界を紛らかす・・36
足利義政(1436〜1490年)は、足利八代将軍で、既に取り上げました、六代将軍・義教は父親、三大将軍・義満は祖父に当たります。
政治的には、生前、死後にわたって、国内を混乱に陥れました。
管領家の細川・畠山の対立から、応仁の乱(1436〜1477年)を誘発、義政の死後は、戦国時代に陥り、織田信長による、天下布武まで続いたと言えます。
文化的には、義満の北山文化に対して、東山文化と呼ばれるほどの文化的には歴史上の貢献をしています。
喫茶・茶の湯では、銀閣寺・東求堂「同仁斎」が四畳半茶室の起こりといわれるほどの付書院を創生していることで知られます。
侘び茶の茶祖と言われる村田珠光は、義政、同朋衆の能阿弥とのコミュニケーションによって、後に東山名物と呼ばれるほどの唐物道具や座敷飾りなどの会所の喫茶・茶の湯様式を理解した上で、和漢の界を紛らかしたのです。
義政による東山文化は、応仁の戦乱以後と考えられることが少なくありません。
しかし、義政は、戦乱前に、既に、東山山荘を築いています。
それ故に、東山文化は、戦乱以前より始まる義政による一生の文化創生活動と考えて良いと思います。
義政は、文化的には、既に取り上げました、足利将軍初代・尊氏時代の夢窓疎石をこころの師と私淑していました。
和漢兼帯を望み、日明貿易を復活して、唐物道具観賞の風流を嗜好しました。
同朋衆の能阿弥を指南役として、座敷飾りなどの創案に熱心で、道具の扱いや茶法など、禅院の茶礼、室礼を研究して、茶の湯的要素を工夫・発達させたのです。
禅院の煎点といわれる茶と小食事の様式を好み、今日に及ぶ、茶の湯の様式の基本パターンとなっていると思います。
東山山荘での政治的な憂鬱から回避するような、浄・禅兼帯の隠逸の生活を好んだとも思えます。
そして、戦乱による混乱から、武将、豪商中心から新しい勢力の台頭を見ることになり、文化的には、貴族文化からの開放と民衆化による発展・創生を迎えることになりました。
つまりは、ハイカルチャー、ポップ、キッチュ、サブカルチャーの界の紛らかしが誘発されたのです。
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