オタピー茶の湯;   日常茶飯の「こころ」・・26

 オタピー茶の湯は日本のグローカル文化; ハイカルチャー、ポップ、キッチュサブカルチャーの界を紛らかす・26

 鎌倉後期から室町期にかけては、中国での闘茶にあたる、飲茶勝負、回茶、四種十服茶と言われる飲んだ茶を当てて楽しむ茶寄合が盛んに行われました。

 茶の遊芸的な楽しみ方で、今日には、「茶かぶき」として、その残影を垣間見ることが出来るものです。

 当時、既に、各地で、茶の栽培、生産が行われていたことを示すものであり、中国貿易によって、沢山の茶道具などが広まっていたことを示すものでもあります。

 闘茶遊びでは、賭ごとや饗宴飲酒としての接客、宴遊の場となり、会所では、和歌、連歌、香会と茶の湯の文芸、芸能的文化を内包して発展を見たのです。

 また、茶の湯・喫茶文化の発展が、初期から、和歌などの日本文化や関連する人たちと深い密接な関係を持っていた事実を示すものでもあります。

 しかし、茶寄り合いが、一味同心、政治的陰謀、風俗問題などとしての一面があり、権力者に取り上げられるようになります。

 ニュー政権の足利尊氏は、武士の法律として、「建武式目」(1336年)には、「群飲佚遊」として制せられるべきこととして、「茶寄合」を「連歌」の会とともに禁止をしたのです。
  次なる茶の湯・喫茶文化の発展は、室町将軍を中心とする書院の茶で、同朋衆なる茶、連歌のみならず、書画などの装飾様式、管理、補修、評価、庭園・建築など、広く総合的な生活文化に通じた専門職集団が育成され、担い、活躍することによって本格的な展開となるのです。

 一方、寺社門前での一服一銭の茶売りや茶屋での煎じ茶売りは、門前を離れて、市中に進出した専業の茶売りの出現を見るほどの貴賎を越えた広がりを持つに至るのです。

 後の“茶屋”の始まりと言えます。

 会所の茶のみならず、貴賎を越えて、市中の喫茶が盛んとなり、唐物茶陶や道具中心から、国産焼き物など国内での生活道具の製造や住居での喫茶も盛んになったと推測できます。
 社交・享楽的な茶の湯・喫茶から、精神性を持った草庵の茶の萌芽となるのです。

 同朋衆村田珠光との交流は、草庵・わび・さびの茶の誕生につながりました。

 不完全性・負の思想、直心の「こころ」を第一とする主客同座による「冷え枯れる」わび・さびの茶の湯までの萌芽前へと向かうのです。
  茶の湯・喫茶が、如何に、人間的な、ハイカルチャー、ポップ、キッチュサブカルチャーの紛らかしによって発展したかが判ります。
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