日常茶飯は選択の連続・・2

  自分の目指すものにゆっくり近づけば良い!本当の誇りは自分の行動から生まれる!(NHKEテレ英語教養番組;リトル・チャロ~東北編~
第10話)


 頤医は、日々の生活ではどんな些細なことにも自分自身が決定する「日常茶飯の選択」の連続だと心がけている。
 その「選択」も可能な限り、「直心の選択」に心がけているが現実はなかなか厳しい。
 如何なる厳しい状況にあっても「日常茶飯」の「選択」に努めているが、チャロでは大切なこと言っている。
 「自分の目指すものにゆっくり近づけば良い!」。
 「本当の誇りは自分の行動から生まれる!」。
 その場や諸般の状況によって自分の意に反した「選択」をしても、「本当は、本当だったら・・!」のような“自己正当化”を後や裏で言わないのだ。


 リトル・チャロ~東北編~第10話に、子犬のチャロ、カモ、白鳥とで上述のような会話がある。

「自分の目指すものにゆっくりと近づけばよい!」
 「本当の誇りは自分の行動から生まれる!」


 チャロが手に入れる必要の切迫しているお札・「八星の札」を雪が深い岩手山頂に昇って手に入れなければならないのを知ったカモがごく自然に自分の飛ぶ能力を超えているにも関わらず、無理と困難を承知で背負って飛び立つ。
 カモの力では不可能のように思われても何度もあきらめずに繰り返す姿を見た美しい白鳥ミナは自分たちが最も大切にしている群れの一糸乱れぬ秩序を保つ規律に反して、カモに代わってチャロを背負って岩手山に飛び立った。
 つまりは、白鳥にとっては自分たちの内でのルールを守ることが何よりも第一で、そのために他で困っていても見殺しにしても、仲間内の論理が正義だったのだ。
 良くある閉鎖的社会での“正義”の振る舞いに縛られている社会正義だ。
 頤医は、“社会正義”をとなえつつ「自らをあざむく」ことはやりたくない。


閉鎖集団社会にとって、当然の日常の行動であっても、「日常茶飯の選択」として集団の規律を破ることが見方を変えれば「正義」となることは少なくない。
 何が大切で「正義」であるかは、その時その場でよく考えなければならないのだ。
 自分や仲間内の価値観を押し付けてはいけないと心する必要がある。
 ポピュリズム国家主義ナショナリズム、ショウビニストになるのではなく、国家権力に対してではなく愛国主義パトリオティズムは失わないノマドになりたいと頤医は願って次のように心している。
 「自分の目指すものにゆっくりと近づけばよい!」
 「本当の誇りは自分の行動から生まれる!」


 頤医にとって「日常茶飯の選択」は、NHKコロンビア白熱教室に登場したシーナ・アイエンガー教授による「The Art of Choosing」、日本語訳本では「選択の科学」と訳されているが、「選択」「Art」のレベルに昇華させたいと日々の精進に努めている。
 「選択の科学」と「選択のART」では意味が異なるのだ。
 日本語訳版は、シーナ・アイエンガー教授の意図するところを失わせている。

 ナチ時代にアウシュビッツを含む強制収容所を奇跡的にあきらめずに生き延びた精神科医・V.E.フランクルによる著書「夜と霧」、「それでも、人生に“YES”と言う」などにあるように「どんな人生にも意味がある」と「日々の日常茶飯での間断のない人生からの問いかけ」に「選択」している自分の生きている姿がある。
 再び戻ることのない一瞬一瞬の「選択」を一回性の緊張としての頤医にとっての「Art」としたいのだ。
 つまり、「人生」からの常なる「問いかけ」に「選択」し続けてのが自分が生きている証しなのだ。

 星の王子さまを著したサン=テグジュベリのように、作品完成した直後に飛行機に乗るのは無理と止められていても「人にはやらねばならぬことがある!」と地中海の戦場に散ったような「選択」がある。
 西部劇で言えば、「シェーン」(ジャック・シェーファー著)のように「いちど、人を殺したものは普通の人には戻れない」と墓場を越えて再び流浪の旅に出るような「選択」もある。
 
 頤医にとっての「日常茶飯の選択」は、岡倉天心が指摘するような「平和な文化、文明が尊重される!」な「選択」が尊厳ある「選択のArt」の道としたい



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