頤医のハッピーかい!・・10

    適適に生きる!

 幕末の大阪の蘭学塾で知られる「適適塾」(適適斉塾)は緒方洪庵が適適斉と号したからだ。
 緒方洪庵が何故に「適適斉」と号し、医学、洋学を教える蘭学塾を「適適斉塾」(俗称・適塾)と名付けたかの由来は、頤医が「適適に生きる」由縁だ。
「適之適 耳目之楽 得之其心」を頤医は日頃の適適守と向き合う時の大切な格言としている。


 頤医の先祖・頤庵が適塾開設の翌年に入門し、「適適斎塾姓名録」の91番目に自筆のサインが記されており、今日に現存している。
 頤医は頤庵を血縁のソールリンケ―ジの元祖としており、「頤医之尊墓碑」に山中頤庵、山中律と山中直樹の名を刻んでいる。
 山中頤医は山中直樹の逆修の銘だ。
「頤医之尊墓碑」はカナダに住む娘夫婦と二人の孫とカナディアンロッキーのボウ川の上流から持って帰った石に刻んだ。
 ボウ川はマリリン・モンローが「帰らざる河」で急流を筏を下った最後のシーンを撮影したところであり、人の信頼や愛とは何が大切かを教えてくれる。


 適適とは、荘子を原点として「自分のこころに適することを適として楽しむ」(「荘子」の「大宗師篇」)と解されている。
 しかし、私は、「適適」は蔵内数太大阪大学名誉教授が「適塾」No16で記されているように「単なる耳目に得る楽しみと心に得る楽しみとの調和と言う以上に、形而下の知的要求の満足と形而上の知的要求の満足との互いの調和」と解している。
 緒方洪庵は、最初には儒学を学び、洋学を学んでいるが、頤庵も十代に長崎に遊学し、18歳で大阪で洪庵と親しい儒学塾に学び、適塾に入門している。
 洪庵が「適適」を大切にして自らの号や塾の名前としたのは、儒学の知識から「耳目で知ることのできる形而下の事実だけではなく、その背景にある形而上の真理を知ることの大切さ」を心しているからだと思う。
 頤庵は、師匠の洪庵から3両のお金を借りて洋書を買ったからお金を送ってくれるように故郷に送った手紙が今も残っている。


 頤医も洪庵・頤医と伝わるソールリンケージとして「適其適 耳目之楽 得之其心」(形而下の知的要求の満足と形而上の知的要求の満足との互いの調和・蔵内数太)を日々に胆に銘じている。
 その心がカナダの娘や孫にソールリンクして欲しいから「帰らざる河」・ボウ川から一緒に採集して持ち帰って「頤医之尊墓碑」と刻んだのだ。
 いつの日か、娘たちが「ソールリンケージ」として、自発的に自分達が名を刻みたいと言うを密かに願っている。



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